1/薄明に

 初冬の夜風は酷く冷たい。夏でも涼しく冬には多くの雪が積もる、というこの国の気候のおかげで寒さには慣れているが、やはり寒いものは苦手だ。そしてこの寒さの中で追われているという状況も相まって、身体はかなり冷え切っている。やはり寒さと自由より湿気と不自由を取るべきだったかな、などと要らぬ考えがちらつく。
 だが、もう後戻りはできないし、するつもりもない。俺の半里後には、俺の首を落とそうと意気込みながら剣を持った甲冑の大男達が駆けてきている。”罪人”を狩るという手柄の為なら何処までも執念深い奴らだ。せっかくお楽しみの時間を選んでやったというのに—

 この国に大層ご立派な城が建つそのずっと前から、山の奥の水が綺麗な所にある集落があった。
 人々は皆眩しく輝く白の髪を持ち、集落を築き、慎ましく暮らしていた。村人同士が助け合うおかげでいつも平和な時間が流れている、そんな村だった。
 だが、俺達の平穏な日々は、山の麓で力を付けていたクレイウス家—王国によって突如として破壊される。村は炎に巻かれ跡形も無く消えた。命からがら隣国へ逃げた人々もいれば、その場で無惨に殺された人々、俺達のように捕えられ王宮の家畜にさせられた人々もいた。
 そして今、五年の月日を経て、遂に俺達は脱獄を果たした、というわけである。丁度逃亡計画が完成したときに城の警備が一時的に薄くなるという好機が訪れたのが幸いだった。

 怒号と甲冑の金属音が夜風に乗って聞こえてくる。城からは全速力で走り抜けてきたため、正直に言ってもう走ることには疲れていた。そろそろどこかへ身を隠したい——そう思った瞬間、左脚に鋭い痛みが走る。驚いて見ると、割れた傷口からは既に大量の血が流れ出している。弓矢だろうか。掠った程度で済んだようだが、向こうが飛び道具を持っていたとは不覚だった。
 耳元でひゅう、と音がして、二発目は右の二の腕を掠った。あいつらは相当本気で俺を殺りたいらしい。
 痛みを自覚した途端、もう走れないと思った。傷口を押さえながら近くにあった茂みに飛び込む。辺りは闇に包まれた森の中だが、いつ見つかるとも限らない。草むらに座り込み、息を殺してやり過ごす。徐々に金属音と声が近付いてくる。幸いにも気付かれなかった。彼らはそのまま俺を探しに進行方向へと消えていった。
張り詰めていた気持ちが緩んだ瞬間、貫かれた傷の痛みが再び襲ってくる。王宮で着せられていた白い服は暗闇でも分かるほどに赤く染まり、傷の深さを物語っている。
「……死にたくねえなあ、こんなところでは」
 俺の呟きを掻き消すように、風に吹かれて木々がざわめく。
 まだ俺は死ねない。焼けるような痛みの中、何度も反芻する。
 そうしているうちに、空が白く染まっていく。幾重にも色を変えていく。きっともうすぐ、太陽がこの森を照らし始めるのだろう。
 夜が明けていくのと反対に、意識は霞んでいく。村の人たちは怪我することなく逃げ切ったのだろうか。まさか、もう殺されたりなんかしてないよな。俺にだって、こんな奴らから逃げ切って早く成し遂げたいことがある。それなのに、俺は奴らに再び見つかる前に死ぬのかもしれない。そう思ったところで、今まで我慢していた疲労がどっと襲ってくる。気をしっかり保とうとしても、抗うことができなかった。

 どれくらいの間、俺は混濁状態にあったのだろうか。
 朝日を背にして俺の目の前に立つ眼帯の男。
 彼に声を掛けられたところで、その日の俺の記憶は終わっている。

 ふっと意識が浮き上がる。ごく自然に目が覚めた。
 ゆっくりと瞼を開けると目に飛び込んできたのは、住み慣れてしまった城の監房の鉄格子でも故郷の我が家の照明でもなく、真っ白な天井。
 夕べ、謎の眼帯男と出会った後の記憶が曖昧だった。逃亡と傷のせいで疲れ切って茂みの中に隠れていたところを見つけられ、二言三言交わしたところで意識が途切れ、気が付けば謎の場所でシーツに包まれていた。
「……っ、くそ……何だ、ここ」
 人がふたりは入れる大きさの寝台、壁一面に取り付けられた本棚とそこに一寸の隙間も無く押し込められた本たち。カーテンはきっちりと閉められ、外の様子は分からない。
 未だ痛む脚を見れば、弓矢が掠った箇所に丁寧に包帯が巻かれていた。そこでやっと、誰かが自分をここまで運んできたのだと思い至る。血に濡れていた衣服も替えられていた。
 丁寧に手当をされたようだが、それでもまだ傷はきりきりと痛む。やっとの思いで上体を起こしたそのとき、部屋の扉が開いた。扉の隙間から真っ黒な頭が恐る恐る覗いているのが見えた。
「動けるなら来い、だって」
 そう言い残すと、彼は足早に去っていった。眠りすぎで上手く働かない身体に鞭を打ちつつ、左脚を引きずりながら黒髪の青年の後を追う。

 青年が向かった部屋の扉を開けると、大きな机に小ぢんまりとした食事が並んでいるのが見えた。俺から見て真正面の椅子に居るのは俺を起こしに来た黒髪の青年。その左側に座るのは、銀髪の眼帯を着けた男だ。
「……誰だお前ら。もしかして、城の奴か?」
 眼帯の男はそれを聞くなり舌打ちをし、不快そうな表情をしてこう言い放った。
「あんな汚物共と一緒にするな。それに、人に助けてもらってその態度とは感心しないな」
 あまりの鋭い眼光に思わず息を呑んだ。男は内心緊張しまくりの俺をほったらかしにして続ける。
「あの塀の中から脱走できた事は大いに褒めてやろう。だが、もう少し地味にやれなかったものか」
「あれでも綿密な計画をもって実行したんだ。それこそ、何年もかけて」
「……ふん、その計画とやらを発案した奴の顔が見てみたいものだ。俺ならばもっと賢くやるがな」
 男はちらりと俺の顔を見ると、鼻で笑った。
「なあ、お前らは一体何者で、ここはどこなんだ。城の奴じゃないんだな?」
「断じて違う。俺はツヴァイク、こいつはテラ。ここは城から二里ほど離れた山中だ」
 テラと呼ばれた青年は俺達の会話には目もくれず、皿の上のりんごを齧っている。あの茂みの中で俺はツヴァイクに見つけられ、ここまで運ばれて介抱されていたということのようだった。
「えっと……助けてくれてありがとう。俺、そろそろ行かなきゃ」
「どこへ?」
 ツヴァイクは、冷ややかな声で俺を刺す。
「あの事件以降村の共同体は崩壊し、今は荒れ地となっているはずだ。お前はどこへ行く? 行く当てなどあるのか?」
「……お前、なぜ村のことを知ってるんだ?」
「この辺りに住む者なら知らない者はない。あれだけ大きな騒ぎがあったのだから」
 窓から射し込む朝日に照らされて、銀灰色の髪が輝いている。村にも銀髪の人はいたが少数派だったし、似たような髪色ならば村の外にも居ても不思議ではない。
「そうか……助けてくれたのはありがたいけど、俺はここでじっとしてる場合じゃないんだ」
 軽く頭を下げ、踵を返す俺をツヴァイクがおい、と呼び止める。
「これを見てもまだ、ここから出ると宣うか?」
 振り返ると、ツヴァイクが俺に向かって一枚の紙を差し出している。真新しいその紙に書かれていたのは、”勅令”の文字。
「何だ、これ」
「見れば分かるだろう。この国はお前らを根絶やしにするという判断を下した」
 文字を読むのは苦手だ。俺がそう言うと、ツヴァイクは紙に書かれた文章を読み上げ始める。その紙は俺達が引き起こした事件の概要、囚われていた人々のこと、”首謀者”と認定された俺の名前と外見的特徴、その首に掛けられた莫大な懸金、そして、「死罪を以て罰する」との文字で埋め尽くされているという。薄く冷たい刃物で背中をなぞられるような恐怖が襲ってくる。じめじめとした城の地下で行動を共にした人々の顔が浮かんでは消える。
 死罪、だと?ふざけないでもらいたい、俺達はただ単に自由を手にしたかっただけだ。
「言い忘れていたが、お前はあれから丸二日眠っていた。この紙が城下町に貼り出されたのはお前の脱走の直後だ。つまり既にこの伝達は国内全域に伝わっている。下手に動けば一瞬で捕まり、見せしめとして処刑されるのだろうな」
 ここまで淡々と語るツヴァイクの声は非情そのものだ。思考がぐちゃぐちゃになる。いかなければ、と言う自分と、まだしにたくない、と言う自分。
「自らの命も守れない者に人の命は守れない。王宮の監視の目が緩むまではここに留まれ」
 唇を血の味がするほど噛み締め、俺は頷いた。仲間を捨てた、という罪悪感。共に逃げた村の人々の顔を思い出しては、傷口と胸が酷く痛んだ。

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