しるす

 開け放った窓から、朗らかな旋律が聴こえる。外ではゼロが歌いながら洗濯物を取り込んでいた。テラは炊事をしていて、今しがた下準備を始めた頃だ。何を作るのかはまだ聞いていなかった。手伝おうとすると、今日は自分が作りたいからゆっくりしていていいと追い払われた。 
 それでも、何かをしていないと落ち着かない性分だ。日中は普段手の届かない場所の掃除をしたり、書き物や考え事をして過ごすことにした。
 忙しくて手付かずになっていた古い書棚の整理をしていると、古い日記のようなものを見つけた。祖父が書いたものだ。旧村の自宅跡から持ち出した物品の中に入っていたらしい。働いていないときは常に机に張りついている人であったから、日記の一冊や二冊が出てきたところで今更驚かない。この本も戦火に晒されたようで表には所々煤っぽい汚れがついているが、中身を確認するのに支障はなさそうだ。
 中を開いてみる。まめな祖父らしく、生活のありとあらゆることを事細かに記録していた。年代がいつのものなのかは判然としない。
 どこかの頁から、何かがはらりと落ちてきた。少し黄ばんだ、折り畳まれた紙だった。床に落下したそれを開いて見てみると、別の冊子から切り取った紙片であるようだった。

 それは事象が丁寧に記録された字というより、速る心情を抑えられない走り書きに近い。

『生まれる。キーラは疲弊しているが無事。名前は——』

 続きには目も通さずに、右手で握り潰した。

 外に出ると、室内よりもさらに温度の高い空気に迎えられた。眩しい日差しが顔や腕を容赦無く灼いていく。この国の冬と夏の季候の差異はどうかしている。冬の寒さは時に人間を殺し、雪が景色を否応なしに白く染めてしまう。かと思えば、その数ヶ月後にはこの様子である。長いことこの国で暮らしているが、季節の変化にはついていけそうにない。
 だが、目の前で軽やかなステップを踏みながら熱唱する男には、寒さとも暑さとも、どんな理不尽とでさえも縁などないように見える。
 洗濯物を取り込んでいたゼロが俺に気づいて、「よお」と声をかけてきた。よほど機嫌がいいらしい。けだるい熱気の中、彼だけは生き生きと動いている。よく見れば、その白い肌には薄く汗が滲んでいた。
「結ばないのか」
「何を?」
「髪」
「あー、その手があったな」
 ゼロはそう言いながら、両手で毛先を一つにまとめる仕草をする。髪を掻き上げた隙間から滴が伝う首筋が覗いた。
「長くて量も多いから煩わしいだろう」
「そう言われればそうだな。結んでくんないか?」
「俺がやるのか」
「おう。お前の方が上手そうだし」
 ゼロが手を離すと、一つにまとまっていた髪がぱっとほどけた。
 俺は部屋の中から適当に髪を結べそうな紐を見繕い、律儀に待っていたゼロの髪を後ろで結んだ。髪をひとまとめにしたゼロは見慣れないせいか違和感はあったが、似合わないとは思わない。ゼロは首回りの風通しが良くなったことが大層気に入ったらしく、さらにご機嫌な様子で残りの洗濯物も取り込んでしまう。
「よし、あとは片付けたら終わりだな」
 手伝いを申し出るとやはり断られたので、暑い中働いてくれている彼らに冷たいお茶でも淹れようと考えた。ゼロが片付けに取り掛かろうとする様子を見て、俺も部屋の中に引き返そうとする——そのたった一瞬の間に。頭上で、何かが破裂した。雷に打たれたかと錯覚するほどの衝撃。それを全身で感じた後にやってきたのは、冷たい、という感覚。
 突然激しい音を立てて降りかかってきたのは、水だった。気がつくと俺は、頭から足までずぶ濡れになっていた。
 外に出てすぐに見上げた空は、黒雲などひとつもない晴天。雨が降るはずがなかった。であるならば。振り返るとゼロが勝ち誇った笑みを浮かべている。手には洗濯など、水を扱う時に使う中型の桶を抱えていた。
 一瞬で濡れ鼠にされた俺は今、どんな表情をしているだろう。ゼロと目が合い、彼はくつくつと笑い出した。
 「どうだ、涼しくなっただろ?」
 たしかに涼しくはなった。冷えた水で体が(おまけに肝も)冷やされて、ようやく回り始めた頭で考える。これはいったい何のつもりか。嫌がらせか、悪戯か。
「どーせ飯ができるまで、何もすることなくて暇なんだろ?」
 ゼロが手に持っていた桶がゆるく弧を描いて飛んでくる。「俺に水をかけることができたら、攻守交代な」俺がそれを右手で受け止めると、ゼロは逃げるように距離を取り、そうして戦いの火蓋が勝手に切られた。
 上等だ。文句を言うのは後からでいい。
 ゼロの髪のこともティータイムの算段も頭から追い出して、水を汲みに行くことにした。

 不機嫌な音とともに、器がテーブルに置かれた。音の先を目で追うと、テラの頰がふくれている。濡れて重くなった髪や服に苛立ちを隠せない様子だ。それを見て「ぷくく」と笑ったゼロが瞬時に睨みつけられている。

 あの後、何事かと様子を見に来たテラも、ゼロの仕業によってびしょ濡れにされてしまった。そこからは全員躍起になって、水をかけたりかけられたりだ。俺たち三人と庭の草むらだけが、たった今にわか雨に降られたかのように濡れて光っている。
「なんで君はあんなことを始めたのかな」
 すべての器を運び終わると、テラは椅子に腰掛けた。座った瞬間の椅子の唸り、彼の声色、そのすべてで彼の立腹の度合いがよくわかる。
 口を尖らせながらゼロは「うーん」と言った。だがそれは、明らかに真面目に考えていない顔である。
「空がすげー青かったからかなあ」要するに彼は、テラにいくら怒られようと、反省も後悔もする気がないのだ。
「理由になってないし」
「川遊びをしてきたんだって思えばいいだろ。それか、通り雨に遭っちまったってな」
「それではしゃげるのは、ガキか君ぐらいだろうね」
「口悪いなぁお前……まあ、周りも涼しくなったし結果オーライってことで」
「僕はよくないよ……ずぶ濡れで気持ち悪い。しかも、ツヴァイクまで加わってるし」
 名前を挙げ、テラは俺の方へと非難の目を向ける。ゼロの悪ふざけに乗るなんてらしくないと思われているのだろう。
「驚きはしたが悪くはなかった。暑くて気が滅入って仕方がなかったからな」
 その気持ちに寄り添いたいのは山々だが、思っていたことを素直に言った。濡れた髪や服が肌にまとわりつく不快感よりも、気だるい暑さとともに水が何かを流していったような、すっきりとした気持ちが勝っていた。「ほら見ろ」と鼻高々なゼロを見て、テラはさらにむくれてしまう。

 陽が傾いて暑さが和らいできたので、テーブルを外に出していた。その上に料理が所狭しと並んでいる。ベリーで作ったジュース、「それ俺が選んだ」とゼロが自慢げに言ってきた焼き菓子、ハーブ入りの冷製のスープ。「投げたら本当に許さないから」と言って運ばれてきたパイ。いつの間にこんなに準備をしていたのだろうか。どれも丁寧に盛り付けされて見栄えが良く、味も流石のものだった。
「ね、今日は感想をもらいたい気分なんだけど。どう?」
 そう尋ねてきたテラの瞳には期待の色が見え隠れしている。俺がどう答えるのが良いか考えていると、ゼロもテラに同調して言う。
「うんうん、俺も聞きてえな」
「は? 君はご飯作ってないでしょ」
「あ? お前だけの手柄にすんなよ。俺も一緒に働いただろ」
 思わぬところで火花が散り始めてしまった。俺は「まあまあ」と止める。
「うまいよ」と伝えると、テラがたちまち笑顔になった。ゼロも満足げに笑った。
 それが何よりも嬉しくて、俺も顔にあらわれるのを抑えられなかった。

 夏が嫌いだった。その日が近づくにつれて毎年俺の耳に届いたのは、「父親がどこの誰かもわからないような子は認められない」などといった怨嗟の声だった。故郷がなくなり、家柄に縛られることもなくなったとはいえ、そうして後ろ指を指される感触は未だに染みついている。
 だから、祝福なんてしなくていいと伝えていた。いつも通りでいてくれていいと。逆に彼らを随分と悩ませてしまったようだったが、彼らなりに日常と非日常の間を探ろうとした結果が今日という一日であったことに違いなかった。
 今でも時々、底の見えない淵に飲み込まれそうな気になる。その時に自分の脚で立ち止まれるように、俺は日々の輝きを見つめ、書き留める。
 テラとは共に歩んでいく約束をした。ゼロの前では役目を果たす決意を立てた。綺麗事と言われても構わないから、ふたりのためなら何だって成し遂げようと思った。それは、この歳になってようやく見つけ出した、生きる意味にも等しいものだ。
 ならばもう、苦しい記憶の象徴は手放してしまっても構わないだろう。はじまりを憎む時間さえ惜しく、ただ今を生きていくほかない。
 とはいえ、特別なことは何も望まない。お前たちが変わらない笑顔で、ただ一緒にいてくれればいい。

 本を閉じて灯りを消す。
 いつも通りの夜が更ける。朝が来る。静かに、それでも眩しく光る日常が、穏やかに回り続けていることを感じる。
 だから、俺はまだここで息をしていられる。

(二十六度目の七月二十日に)

作者ひとこと

ユーリは母(キーラ)を早くに亡くし、祖父に育てられました。父親はそれなりに社会的身分があった人物のようですが、今となっては所在はわかりませんし、調べたいとも思いません。
彼に年下ふたりがいてくれてよかったなと思います。

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