無題 Ⅰ

自殺を試みる描写、暴力・流血描写を含みます。

pictSQUAREにて【2022/6/4(土)13時~翌6/5(日)12時】開催
男と男の巨大感情|性的な関わりのない男達オンリー
【A to Z】発行 「lost at sea」収録


 風が運ぶ匂いを頼りに、建物の合間を縫うように歩く。
 やがて眼前に開けてきたのは、何も遮るものがない空と一面の砂。そして、彼方を望む水の大きな広がり。
 感嘆の声を上げ、彼は駆け出した。そのわずか後に砂に足跡が現れる。柔らかい砂に足を取られながら「雪の上を歩いているみたいだ」と言って笑う。
「突っ立ってないで、早く来いよ」
 俺の数歩先をゆきながら、彼は振り返った。「俺はいい」と答えた。「ここにいるから、お前は好きに歩いてこい」
 彼は俺の返事を聞いて、呆れたような顔を見せた。
「本からだけでは、得られないものだってあるぜ」
 そう言うと彼ははにかんで、波が押し寄せる際へと再び歩き出した。未知のものに触れたくて仕方がないと、はやる気持ちを堪えきれないように。
 俺はそんな彼を、眩いものを見るように眺めていた。
 陸の端、いわば自らの常識の最端。そこに、彼と二人立っているという現実。もう若いとも言えない歳になった俺でも、確かに高揚していることに気づく。
 波が打ち寄せる方へ、彼のもとへと、一歩踏み出した。
 遠くでは光が、煌々と揺らめいている。

 故郷では顔見知り止まりだった彼と再会したのは、二年ほど前のことだった。国と故郷をめぐる事件に翻弄され、生活をともにするようになってから、俺の日常にはいつも彼がいた。俺たちの故郷は海から遠く離れた内陸の小さな村である。村はいつも閉じられていて、外へ出ることが許されたのはほんのひと握りの人間だけだった。
 それも戦争で滅んでしまった今、俺たちはどこへでも行ける。自分の足で、望むのならどこへでも。

「あれ、何?」
 椅子に逆向きで座りながら、彼は壁を食い入るように見つめていた。視線の先を追うと、小さな一枚の絵が掛けられていた。
 それは俺の仕事のために出向いた隣の都市にて、依頼人を交えて三人で茶飲み話をしていたときのことだった。室内には古い神話を題材にした彫刻や絵画、鮮やかなブルーで彩られた器たちが所狭しと並べられていた。派手やかな芸術品が部屋を埋め尽くす中で、彼が指した絵は飾り気がまるでなく、素朴だった。神話や経典の光景を描いたものとは違い、作者が目にした風景を、記憶に焼き付けておきたい衝動のままに描いたように見える。
「まだ若いのにお目が高いな。そいつはいつも助けてやってる画家の練習作みたいなもんだ。欲しいか?」
「いや、そういうわけじゃないけど。あれは何だろう、って思って」
「海だ」
 依頼人と彼のやりとりに俺が横から口を挟むと、彼は、うみ、と繰り返した。黄金色の瞳が、今度は俺をじっと見つめた。
「川や湖とは違う?」
「違うな。もっと果てしなく広い」
「お前は見たことある?」
 俺は首を振った。書物の中の知識としてしか知らなかった。仕事のために出向くのもほとんど内陸の地域で、沿岸部に足を運んだことはなかった。俺でさえそうなのだから、俺よりも閉鎖的な環境で生まれ育った彼が海を見たことがないのも頷けた。
 依頼人とは旧知の仲で、俺たちの出自も過去もよく知っていた。せっかくならば家に帰る前に寄り道して遊んでくるといいと、今日の日没後に出発する陸便を紹介した。
 俺は彼の背中に「どうする」と問いかけた。彼は返事をすることも忘れたように、ただじっと、小さな絵を見つめていた。

 帰宅が数日遅れることを伝えさせ、寄り道して向かうことになったのは、海辺の小さな田舎町だった。小規模な港があり、人や物の行き来も多い。中心部では商人や護衛兵たちに交じり、工房の職人たちが働く風景も興味深い。
 次の陸便は四日後にしか出ないのだという。それならば初めて訪れる土地を見て回ろうと、俺たちは二人で町を歩くことにした。彼は目に入ったものを逐一取り上げては俺にその詳細を尋ねてきたが、答えられないものの方が多かった。街では滅多に目にしない不思議な形の海産物、木々や花について。答えられないこと、初めて知ること、それも悪くないと思うのは、俺もこの旅をそれなりに面白がっているからだろう。

 太陽が真上に高く上ってきた頃、俺たちは一番賑わっていそうな食堂に立ち寄り、昼食を摂る。店構えは小さいが料理の味は良く、長時間移動の疲れを忘れられた。
「なんだか騙された気しかしねえな。四日後にしか出られないってのは」
「移動用の荷車は頻繁には出ないから、仕方がない」
「そりゃわかるけどさー」と言い、彼はスープの中のトマトを掬い上げて口に入れた。そして、俺が食べているものをじっと覗き込む。
「そっちのも美味そうだけど、何が入ってんの?」
「タラだな」
「ふーん」このようにさらりと返した後にはもう、彼の関心はスープの主役たるピクルスに移っていて、もぐもぐと噛みしだいている。

 一緒に暮らしてみてわかったことがある。食の趣味はさほど離れていないこと。ただし、味付けの濃さに至っては好みが若干分かれていること。もう少し濃いめの味が俺は好きだけど、と言いつつも、結局は何でも美味しそうによく食べること。そして、実は猫舌。今も、スープの熱さに手間取っている。本人はそれを気取られないように誤魔化しているつもりである。
「火傷するなよ」
 俺は純粋に心配をしたつもりが、余程気に障ったのだろう。「ガキ扱いすんな」と一文字ずつ投げつけるように言ってきたが、それきりだった。食事中の喧嘩は無しだという不文の約束が、いつからか俺たちの間にはある。

 日が沈むまでには、三晩滞在するための宿屋を探さなくてはならなかった。食事が終わった後、彼が店番の老婆にこの町にある宿屋について聞き出していた。初対面の人間にも取り入るのに長けていて、俺は彼のそんな面をある種の才能だと感じている。
 彼を先に店から出し、代金を渡そうとすると、店番の老婆が俺に声をかけてきた。
「あんたたちは旅の人間かね?」
 頷いて応えると、老婆は歯を見せて笑った。「そうかいそうかい、出で立ちが似ていたから兄弟かと思ったんだがね」
 俺は言い淀んだ。そして、咄嗟にこう返してしまう。
「……だったらよかったかもな」
 老婆には奇妙な受け応えに聞こえたに違いない。彼女はまだ何か話したげに見えたが、俺は机上に代金を置き、逃げ出すように扉を開ける。
 彼がこの会話を聞いていないことが、ただただありがたかった。

 食堂を出て少し歩くと、露店が多く立ち並ぶ通りにつながっていた。そこは町一番の市場のようで、食料や衣類、使い古しの道具に怪しげな魔法具まで、様々な物品が売買されていた。「特に買い物はしない」ということで意見は一致したが、それでも彼は興味深そうに眺めていた。
 俺はこの町に着いてから、どういう訳かずっと気が抜けていて、それがまさしく不味かったのだと思う。
 店と人間がひしめく中で、彼を思いがけず見失った。彼は耳が良いから聞こえるだろうと名前を呼び、周囲を捜して歩くが、出会うことができなかった。
 全身に、嫌な汗が滲む。一瞬でも彼から目を離した己を激しく責める。平和だとは決して言い切れないこの世界で、俺たちは常に他人の悪意や死と隣り合わせで生きていた。彼の身に起こり得る悪い想像の数々が、頭の中を駆け巡る。
 そして、彼は声に特異な性質を持ち、他人の目を引きやすかった。彼にその気がまったくなくても、善人も悪人も等しく引き寄せ得る。そのことを知っているからこそ、不安は尚更募る。
 俺は彼と出会ってから今まで、彼をあらゆる脅威から守ると決めていた。それこそ、俺の命と引き換えても惜しくないほどには。市場。店。海岸。俺はとにかく町の中を探し回ったが、彼の足取りは不思議なほど掴めなかった。食堂にも戻ってみたが、そこにも彼の姿はなかった。
 焦りで平静を失いそうだった。こんなにも簡単に、彼は俺の前から姿を消してしまう。世界は、彼一人をどこかへ攫ってしまうことくらい、いとも容易くやってのける。その事実が、一層俺を掻き乱す。

 どれくらいの時間が経ったのかは定かではない。隈なく捜したと思い込んでいたが、町の中心部から少し離れた静かな住宅地を見回っていないことに気づき、俺は人通りのない平原の田舎道を歩いている。
 海岸から遠ざかりつつあるのか、風が運ぶあの独特な潮の匂いは薄くなっている。たとえ道に迷っていたとしても、彼がこんな場所まで来る理由が見当たらない。ここまで捜しても出会えなければ、俺は一体どうすればいいのだろうか。暗澹たる思いに飲まれかけていた、その時だった。
 俺が歩いている平原の道沿いに石造の建造物が現れる。外観を見る限り、教会のようだ。その入口から出てきた人物に、俺は目を見張った。緑色の風景の中で一際目立つ、白い髪。強風に乱された髪を掻き上げながら俺の方へと歩いてくる。その人が眼前に俺を認めて体を一瞬強ばらせた仕草が、遠くからでもはっきりとわかった。
 早足で彼のもとへと歩み寄る。お前の身に何事もなくてよかった。生きててよかった。もう二度と顔も見られないかと、本気で思った——かける言葉は色々とあったはずなのに、まず口をついて出たのは怒りにも似た感情だった。
「一発殴ってもいいか」
「待て待て待て! はい、ストップ。言いたいことはわかってるから落ち着け」
「顔か腹かは選ばせてやる」
「どっちも痛えし嫌だよ! そもそも、お前が俺を見失ったのが悪いんだろうが。俺に当たるんじゃねえ」
「不用心に見知らぬ土地を歩き回っておいて、自分にはひとつも落ち度はなかったと言いたいのか? 上等な口を利くじゃないか」
「よかった。出会えたようですね」
 あろうことか教会の門の前で小競り合いを始める俺たちに、声をかけてきたのは中老の司祭だった。
「仲がたいへんよろしいようで、安心しました。でも手を上げるのはやめておきましょうか」
 俺たち二人は、教会の教えが力を持たない社会で生まれ育った。その影響なのか、俺は正直なところ、宗教とはもう関わらないで生きていたいと考えている。だが、ここは誰かにとっての神聖な場所なのだ。穢すわけにはいかない。
「……そーだな、やめにしよう」と彼も言うと、司祭を笑顔で手で指し示した。
「色々教えてもらった」
 彼の様子を見る限り、俺と離れていたしばらくの間、退屈は少しもしなかったようだ。俺が謝意を示すと、司祭は微笑んだ。
「あなた方の歩む道に、主のご加護がありますように」

「俺さ、もうすぐお前のところを出ていくことにした」
 それは町に滞在して二日目の夜のことだった。宿に併設された食堂は他の旅人たちで騒がしかったはずなのに、その言葉だけは耳にすっと入り込んできた。咀嚼していた飯の味が、途端にわからなくなった。
「他に行く当てでもあるのか」
 味がしなくなった飯を飲み込んだ後に口から出てきた言葉は、ひどくつまらなかった。そんなものが彼にあるわけがないと知っていて、俺はわざわざ尋ねる。ねーよ、という返答の仕方まで予想通りだった。
「お前たちとの暮らしが嫌になったとか、そういうことじゃ決してないからな。……ただ」少しばかり口を閉じた後、彼はぽつりと口にする。「俺はここにいていいのかって、眠る前にいつも思うんだ」
 仲間たちのもとへ帰ってこの話をしたなら、自分を惜しんで引き留めようとする人がいるだろう。それを聞いて迷い始める前に、お前に伝えたかった。彼は静かに、しかし確かな決意をもって俺に打ち明けたのだった。その真剣な眼差しに、決心の深さを嫌でも感じ取ってしまう。
「行けばいい。どこへなりとも」
 俺には、そう答えることしかできない。

 思いがけない打ち明け話のせいか、それとも酒の量を見誤ったせいか、その後の足取りはひどく重かった。
 二人で部屋に戻って灯りを点けると、締め付けるような頭痛までもが襲ってきた。酔いが回っているのだろう。完調でないことは彼には黙っていた。
 しばらく取り留めもない話や次の日の相談をして、会話が少し途切れた間に、ベッドの上で彼は瞼を閉じていた。灯りを消して眠ろうと思ったが、横になっても頭の痛みが増すばかりで寝つけなかった。
 寝ている彼を起こさないように宿屋を出て、ひとり海岸へと足を運ぶ。深夜の砂浜には人の気配はなく、波が静かに囁いていた。時折風が強く吹いて、潮の匂いを鼻に打ちつけてくる。
 彼はちゃんと眠っているだろうか。一度寝付いたらなかなか目を覚まさない奴だから、大丈夫だろうと思う。少しばかり夜風に当たって気分が良くなれば、部屋へと戻るつもりでいた。

 彼への思いに、名前をつけられないままでいる。
 昼間の老婆との会話がふと思い出される。これまでもあのような類の質問をされることは何度もあった。だが、俺たちを言い表す言葉はなかった。名前を明確に定めない関係が心地よいと思っていた。
 一度だけ。たったの一度だけ、彼にキスをした。そうすることでしか思いを伝えることはできないと信じて疑わず、立ち止まれなかった。舌や唇を血が出るほど強く噛んで、顔も腫れるまで殴打して、そうして彼は俺を拒絶した。「俺は誰にも触れられたくないし、誰のものにもなりたくない」と彼が零すのを見て、俺はこんな手段で彼を繋ぎ止めようとした俺のことを心から軽蔑した。

「自由に生きたい」それが彼の望みなら、俺に引き留める権利はない。俺は彼の家族でも、友人でもない。ただの同居人だ。年長者だからと、良かれと思って彼の選択に、人生の一部になろうとするのは、傲慢が過ぎる。そう思うようになったのは、その時からだ。
 距離が近すぎると俺たちはうまくやっていけない。だから、境界線を守らなければならない。
 そう理解しているはずなのに、こんな夜に思い出すのはいつも、あの日彼が俺に与えた痛みだった。

 頭が割れそうなほど痛かった。考えることを、もうやめてしまいたかった。
 靴を履いたまま、波が打ち寄せる方へと歩みを進める。海の水は塩のような味がするという。このまま歩みを止めなければ水に飲み込まれるだろう。それでも構わないと思った。
 夜に薄着で出歩いてもいいくらいに春が深まったとはいえ、海はひどく冷たい。そして、どこまでも暗い。その漆黒を凝然と見つめていると、懐かしさにも似た感情に襲われる。
 俺は俺自身を何度も終わらせようとして、それでも最後の決心がつかなかったから今日まで生き長らえている。ここ数年はその欲求も衝動も忘れるほどに満たされていた。だから、たった今湧き出てきたそれを、俺は懐かしさをもって受け止める。
 息が止まる寸前の恐ろしさも苦しさも、経験から知っていた。水が体内に急激に流れ込んで激しく咳き込んでいるとき、頭の中を埋め尽くした空白。あの恐ろしさはもう味わいたくないと思っていた。
 だが、そう遠くない未来に彼が俺の日常から消え去ってしまうことを思えば、一瞬の苦しみなど瑣末なものだ。ゆっくりと、一歩一歩確実に、足を進める。
(結局、言いたいことのひとつも言わずに消えるのかよ)
 声が頭の中で反響した。紛れもない、彼の声だった。俺は沈黙を貫く。ここに彼はいないことはわかっていた。彼は今も眠っていて、俺が側にいないことには気づいていないのだ。
 それでも声は止まずに俺を責め立てる。ついに彼が、見放すように(さよなら)と言う。そのたった一言で、俺はついに無へと足を踏み入れる。
 波が急に強まり、水で濡れ切った下半身では回避することもままならなかった。このまま水の底に沈んでいくのだと、目を閉じた。その瞬間だった。
 彼が、俺の名前を呼ぶ声がした。騒ぎ立てる波音の中でもはっきりと耳に届いた。都合のいい夢であってほしい、と振り返れば、その人は俺のすぐ後ろまで迫っている。波に体を押し流される寸前で俺の腕を強く掴み、岸へと引き戻そうとする。俺という存在を繋ぎ止めようとする引力、それを腕に感じた瞬間、虚脱した意識が覚醒した。

「あまりにも早い時間に寝ちまったからか、目が覚めた。嫌な予感って、当たるもんだな」
 息を荒らげながらも抑えた口調で話す彼は、無邪気にはしゃぐ昼間の彼とはまるで別人のようであった。気がつけば、俺は完全に砂浜まで引き上げられていた。
 俺は呆然と、その場に膝をつき座り込んだ。じわじわと顔に熱が込み上げてきて、視界が潤んだと思ったら、溢れて頬を伝っていく。それが涙だと気付いた瞬間、俺はひどく動揺した。涙など、とっくの昔に枯れたと思い込んでいた。自ら破滅に向かって彷徨い歩いていたときでさえ、泣くことを忘れていた。
 恐る恐る右目の眼帯に触れるが、そこは濡れてはいない。傷を負ったときに損傷してしまったのか、あるいはろくな治療もせずに放置したためか。涙を流すという機能を既に失っているようだった。片目を失ってから七年は経っているというのに、今初めて俺はこのことを知ったのだ。
「なんだ。ちゃんと泣けるんじゃん、お前」
 膝をついてぼろぼろと泣く俺を見下ろしながら、彼はさらりと言った。みっともないと、呆れられるとばかり思っていたものだから、尚更その言葉が目頭を熱くして、止めどなく溢れ出す。涙が砂浜に吸い込まれていく。
 彼に再び、名前を呼ばれた。俺は今起こっている一切をどう受け止めるべきかわからず、言葉を発することも顔を上げることもできなかった。返事もせずにただ泣き続ける俺に強い眼差しを放ちながら、彼は呟く。「自分だけがつらいって顔しやがって」その声は、ついに怒りに震え立ち、俺との間にある空気を揺らす。
 俺を引き留める彼の声がして、彼が俺を捜しに来たのだと理解した瞬間から、全身が粉々になってしまいそうなほどの苦しさに苛まれている。目を覚ました時に俺の不在を感じてから、海岸で俺を呼び止めるまでに、彼の胸の内で起こっていた感情を、俺は知る由もない。だが、破滅へと向かう俺を繋ぎ止めた彼の手。その手に込められたであろう彼の思いに、愚かにも俺は期待をしてしまう。それがどうか特別な意味を持ったものであってほしいという、苦しい期待。
「大嫌いだ。お前のそういうところが」
 だから、そいつを打ち砕くように、突き放すように、彼の口から発せられる憎しみの言葉はいつも、俺を安心させる。救いを得たような気にさえなる。どうかしている。ずっと前から、俺は既にどうかしていた。
「黙ってないでなんか言えよ。口にしないと、わかんねえだろ」彼が俺の髪を引っ掴んで、無理やり視線を合わせた。砂の上へと頭を落としていた俺はそこで初めて、彼の表情を正視する。その言葉や声色とは裏腹に、俺はすべての感情を殺してきたかのような顔で俺を見ている。その目は冴え凍る今夜の月と似ていた。あまりにも綺麗で、俺を捕らえて離さなかった。
 あの日も。俺がキスをして、それを彼が激しく拒絶した後も、彼はそう言ったことを思い出した。
「傷つくのは俺だけでいい」たまらなくなって俺は吐き出した。本当のことだった。それから、お前はどこへでも行ける、だとか、俺のことなんか忘れろだとか、心にもないことを思い付くままに言った。ひと単語、口にするごとに涙が溢れてくるのが、可笑しくなって、口元が歪む。z
 彼は黙って聞いていた。やがて俺が何も言えなくなって閉口すると、「変な奴」と言ってけらけらと笑い出した。
「そんな顔で言われたって、説得力全然ねーよ」
「お前が言わせたくせに」
「だって、本当のことだしな。……なあ。水の中って冷たい?」
「冷たいし、寒い」
 俺がそう言うのをしっかり聞いた後、彼は躊躇なく水の中へと足を踏み入れ、止める間もなく太腿まですっかり浸かってしまった。
「……おい」俺は一瞬ぞっとした。今度は彼を海が攫ってしまいやしないだろうかと、恐ろしくなった。しかし、彼の顔にはいつもの無邪気な笑顔があり、俺の方を見て言う。
「ふたりでなら、羽目外したって別にいいだろ」
 こういうとき、俺は彼の軽率で危なっかしい行動を咎めていた。思い返せば、出会ったすぐの頃から、今までずっと。
 だがこのとき、俺は迷わず彼の背を追った。
 海水は俺たちの体を容赦なく冷やして、それでも彼は、俺は、笑っていた。ありとあらゆる苦しさを笑い飛ばす勢いで、笑っていた。二人とも濡れて重くなった体を引きずり、広大な海岸をのろのろと歩きながら、くだらない会話を交わし続けた。

 本当は、どこにも行かせたくなかった。
 その選択は、正しいか正しくないか、合理的か、安全かどうか。そんなことは二の次で、ただの建前だ。彼が遠く離れていくことを俺の心が許さなかった。今にも去ろうとしている背中を追い縋って、「いくな」と言ってしまいたかった。今この瞬間だって、すぐそばにいる彼のことを、強く抱きしめてしまいたかった。何度も何度も手を伸ばしかけた。

 だが、俺が再び過ちを犯すことを、彼が許すはずがなかった。伸ばした手は、空を切った。

 せめて、ほんの一瞬だけ。この夜だけは、彼の前で弱くあることを許されたかった。そうすれば、俺はもう、別れを告げられる気がした。途方もないこのいとしさに。名前をつければ壊れてしまう気がした、彼とのすべてに向けて。

 前を歩く彼の顔を飛び散った水飛沫が濡らしたようで、しおっからい、とわめく声が聞こえた。俺は彼の視界に入らないようにそっと、海水で濡れた右手、そこに浮かび上がった水滴に舌を這わせた。
 それは、涙と同じ味をしていた。 

 俺はその光景を、静かに見つめている。
 

 やがて水平線から太陽がその気配を滲ませる頃、彼らはようやく、濡れた体を引きずって宿屋がある方角へと歩き始める。俺は何も言わずにそれを見送った後に、彼らとは反対の方向へと歩き出した。
 彼の手の強さと熱さが、いつまでも腕に残っている。他ならぬ、喪失の痛みとして。

 あの小さな旅から戻り数日が経った後、彼は忽然と行方を眩ました。
 さよならも、いまだに言えないままだ。
 (了)

作者ひとこと

「俺」と「彼」の話です。要はツヴァイクとゼロの末路の話なのですが、固有名詞を出さないという縛りで書きました。
「彼」の話は「無題 Ⅱ」で読むことができます。
寺山修司の「一ばんみじかい抒情詩」、谷川俊太郎の「泣いているきみ」にインスピレーションを受けています。好きな詩です。
「無題」というタイトルをつけることに何故か凝っていた時期ですが、名前をつけることで喪われてしまう何かがあるとも思います。

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