3/雨景

 いつまでも降り続ける雨の音と黒煙の臭い、高々と泣き笑う自分の声。



 激しい動悸で目が覚めた。上半身を起こし辺りを見回す。
 夢を見ていた。目に飛び込んできたのは王宮の地下牢の光景だった。
 地下なのに地上へと続く扉が薄いせいで、雨の音が地下空間に鳴り響いていた。その中で俺は糸が切れたように笑い、周りでは村の仲間たちが不安そうな眼差しを向けている夢だった。
 しかし、ここはもう、あの牢獄ではない。この頃すっかりお馴染みの風景になってしまった白い部屋だ。さっきまで周りにいたはずの村人たちもいないし、俺を脅かす死と暴力の不安もない。
 窓の外を見ると、雨は降っていなかった。代わりに灰色の雲が空を覆っている。
 緊張していた身体からすっと力が抜け、俺は再び寝台へと仰向けに倒れ込んだ。嬉しい記憶も幸せな記憶もいつかは薄れていくものなのに、憎悪の記憶だけは、時間が経っても生々しく纏わりついてくるものなのか。
 白い天井を見つめていると、目頭がじわじわと熱くなり視界が滲んだ。やがて堰を切ったように溢れてきたそれを、拭い取ることもせずに、茫然と天井を見上げていた。
 涙を流したのは、いつ以来だっただろうか。

「どこか調子でも悪いのか」
 それはいつものように朝食を食べ、片付けまで済ませてしまった後のことだった。ふいにツヴァイクが俺に尋ねた。こちらの腹の底までも見透かすような眼差しが、やはり苦手だと思った。
 もしかすると瞼が腫れているのに気づかれてしまったかもしれない。別に、とだけ言い、俺は逃げるように与えられた部屋に戻った。身体の調子が悪いわけではないが、後味の悪い夢を見た後だ。苦手な人間と話をすればさらに気分が落ち込んでしまいそうだ。
 再び寝台に仰向けに倒れ込む。白い天井を見つめながら、俺はじっと考え込んでいた。
 一緒に脱走した仲間の村人たちはどこでどのように過ごしているだろう。俺が行かなければ、誰が助けに行くのだろうか。王都の中に潜入はできなくとも、その途中で困っている奴がいるかもしれない。それを確かめたいと、俺はずっと思っていた。

 部屋の窓を開けて外の様子を確かめる。平屋だから無茶な高さではない。そこから飛び降り、地面に着地する。
 俺が外の空気を吸うのは実に四日ぶりになる。とは言っても、四日前までは城の地下に閉じ込められていたし、村で暮らしていた頃も外へはほとんど出ていなかったのだからそこまで大仰なことでもない。日没までに戻れば大丈夫だろう、と考え、王都のある方角へと急いだ。
 目的はただ一つ、あの時ともに逃げた村の人々の無事を確認するためだ。 

 

 今ではもう消えてしまった故郷そのものに哀愁を抱くことはない。友人と呼べる存在は一人もいなかったし、家族が今でも生きているという保証だってどこにもない。
 しかし、王宮の地下牢で出会った村の人々は違った。村人たちとはほとんど交流がなかったが、こんな俺にも分け隔てなく接してくれた。囚われていた期間は惨めさや辛さを味わうことばかりだったが、彼らの存在無しには脱出しようという気持ちは生まれなかったと思っている。

 家から離れてから、それほど苦戦せずに王都に続く道を見つけることができた。しかし人や荷馬車などの往来が激しく、すぐに近づくのは危険だと判断し、かなり離れた高台から門の様子を窺うことにした。
 門の前には多数の衛兵が並んでおり、無断で入国しようとする不届き者がいないか目を光らせているようだった。「ここ数年の間、クレイウスは恐怖政治へと緩やかに傾き始めている」とツヴァイクが話していたのを思い出した。城下町の人々はどのような思いで暮らしているのだろうか、俺には想像もつかない。
 王都は人が登るのも不可能なくらいの高さの壁に囲まれている。その城壁よりも高くそびえ立っている空色と白を基調とした建造物が、クレイウスの王城だ。悪趣味な城廓だと思う。外観だけ見ると小洒落た建物だと思わなくもないが、地下室などの環境は極めて劣悪だった。思い出しただけで虫唾が走る。
 ひとり城門を見つめていると、遠くから騎馬隊がこちらに向かって来る足音が聞こえてきた。早速王宮の人間に見つかるのはまずい、と身を隠せそうな深さの草むらに飛び込んだ。
 甲冑を身に纏った屈強な男たちが、比較的ゆっくりとした足取りで隊列を作り、王城へと帰還する途中のようだった。物音を立てればすぐに見つかる。予想もしていなかった事態に、胸が大きく高鳴る。
 騎馬隊の中央近くにいる、最も高貴そうな服を身に着けた金髪の男が、俺が身を隠しているこちらを一瞥した。そして、僅かに笑ったような気がした。気づかれたかと思い身構えたが、その男は近寄ってくることも歩みを止めることすらもせず、ただ城門に向かって真っ直ぐ馬を歩かせていった。

 隊列の最後尾が城門を通過したのを確認し、緊張のあまり顔に滲んでいた汗を拭った。
 あれは一体何だったのだろうか。顔も見たことがないし名前も知らないが、あの男の地位の高さは、クレイウスの王族というものを見たことがない俺でもすぐに察しがついた。
 今日は特別寒いわけでもないのに、なぜか寒気が走っていった。やはりこの付近は危険で、すぐに遠ざかるべきだ。そう思い立ったときに目に飛び込んできたのは、城門と反対側の方向から甲冑姿の兵士たちが三人、俺の姿を見つけてすぐ目の前に迫ってきている光景だった。このまま背後にある城門まで追い詰めて、大人数で叩こうという狙いなのだろうか。
 しまった、と思った。あの金髪の男に気を取られてすっかり油断していたのだ。
「こんなところで何をしている、罪人」
 低く挑みかかるような声で一人の兵士が言う。その手に握られた長剣が銀色に光るのを見て思わず息を呑んだが、ここは毅然とした態度を取らなければ、と思っていた。
「『髪は白く、二箇所だけ赤い』……四日前の事件の首謀者で間違いないな。ロベルト様からは普通の村人はどう扱っても良いが貴様だけは絶対に殺さず、生かしたまま届けよとの御達しだ。両手を挙げて膝を地につけろ」
「……は、嫌だね。またお前らの犬にされるのは。そんなことより、普通の村人はどう扱っても良いってのがどういうことなのか聞きてえな」
「口を慎め、無礼者が。そのままの意味だ。事件のその日に殺された者もいれば、捕らえられた後も激しく抵抗して、何時間も痛めつけられている者もいる」
 兵士の言葉に、俺は絶句していた。しかし、少しでも心が乱れているということを悟られてはいけない。今にも溢れ出しそうな怒りを抑え込み、兵士たちを睨み付けた。
「とにかく城まで来てもらうぞ。痛い目に遭いたくないのなら、ここで大人しく捕まれ」
 武器を構えながら、三人の兵士がにじり寄ってくる。
 許せない、と思った。身体に微かな熱が生まれるのを感じる。
 すぐさま兵士たちの目の前まで駆け寄り、右腕を素早く一人の兵士の頰目掛けて振るった。それは、兵士が瞼を一回閉じて開けるまでの僅かな時間とほぼ同じ時間だった。いつここまで距離を詰めに来たのか、と兵士たちは目を丸くしている。彼らが予想外の事態に狼狽する様子を見て、俺は奴らを嘲笑う。
 これくらいの短い距離であれば、お前たちの目にも止まらない速さで移動することができる。それは、村での生活で身についた”特技”だった。
 しばらくの間はそうやって兵士たちを翻弄できていたが、奴らが俺の戦い方に慣れ始め、次の動きを先読みされる瞬間が多くなった。兵士の怒号に混じり、馬の足音が近づいてくる。騒ぎを聞き付けた別の兵士たちが応援に向かっているようだった。
 剣が空を切る音を聞きながら、何とかして奴らを撒かなければ、と思った。この先俺一人だけでは太刀打ちできなくなるかもしれない。間一髪で躱したつもりだった長剣の先が脇腹を掠め、服を僅かに切り裂いていった。そのことに動揺し隙を見せてしまったために三人の大男に取り囲まれそうになり、もう終わりだと覚悟したその時だった。
 兵士たちの足首に何本もの鎖が絡み付き、足を取られてバランスを崩した彼らは次々に転倒した。鎖が飛び出してきた方向を見ると、そこには見たことのある人物がいた。袖がない上衣を身につけた、黒髪の青年。テラだった。
「まさか、城門の手前まで来てたなんて……ほら、早く!」
 テラは手にしていた鎖を投げ捨てると深い森の中へと駆け出していった。起き上がった兵士たちが何か口々に言いながら追ってくる。俺もテラの後を追いかけて走り出した。

 

 朝から空を覆っていた灰色の雲が暗さを増し、とうとうぽつぽつと雨を降らし始めた。濡れるのが嫌いらしいテラは、顔に落ちてきた雨粒を何度も拭っている。彼の機嫌が悪いのは、きっとこの天気のせいだけではないだろう。
 もう随分長いこと逃げている。兵士たちを撒くために必死で走っているうちに、俺もテラも帰り道がわからなくなってしまっていた。そのせいで口論になりかけたが、やはり一度立ち止まって考えようと、森の中で偶然発見した廃れた小屋に身を隠すことになった。
 小屋の中は本棚と机が置かれているだけのかなり質素な作りだったが、大小様々な木箱やガラクタが放置されていた。足の踏み場もなかったので、散乱した物を動かしたりしながら二人分座れる空間をなんとか確保した。
 そうこうしている間に、雨の音は強さを増していく。外壁に雨粒が勢いよくぶつかる音を、俺は暗澹とした気持ちで聞いている。
「あのさ。何か僕に言わなきゃいけないことがあるんじゃないの」
 やはり不機嫌そうなテラが、しばらくの間続いていた沈黙を破った。
「……ごめん。俺のせいで」
「そうだね。短絡的で理解しがたい君の行動のせいで、僕らは具合が悪くなりそうなくらい心配したし、腹が立った。ツヴァイクなんか、僕も今まで見たことがないくらい怒ってたよ」
 丁寧ながらも鋭く尖った言葉が胸を刺す。事の重大さは、痛いほどわかる。そう言われても仕方がないほどの愚行を、俺はやったのだ。
「君はさ。自分のどこが悪かったか、本当にわかってる?」
 テラは続けて、俺の痛いところを突く質問を投げかける。もちろん、思うところはたくさんある。しかし、そのどれも言葉でうまく言い表せず、俺は押し黙るしかなかった。自分が納得する返答が俺から引き出せないと早々に悟ったらしいテラは、静かに語り出した。
「一番だめなのは、自分が置かれた状況を全く理解してないところだ。命を狙われているのに丸腰で敵地に乗り込んでいく馬鹿が、君以外にどこにいるだろうね」
 ツヴァイクに読み上げられたあの文書のことを思い出した。死罪という言葉が、どこか他人事のような気持ちになっていたことは否めない。
「でも、あいつらは絶対助けなきゃいけない……じゃないと、王宮にいいように扱われてしまう」
「ほら、そうやって、『絶対俺が助けなきゃ』って思い込むから、自分で自分の首絞めてるんでしょ。君がそこに向かわなくても誰かが向かうかもしれない。あるいは、失敗して徒労に終わるかもしれない。わざわざ危険を冒してまで、君がそこに行かなきゃいけない理由は何なの?」
 そんなもの、俺が助けたいだけだ。あの極限状態の中で俺が俺のままでいられたのはあいつらのお陰だったから。
「それはさ、ただ君が自分の心を満たしたいだけだよ。残酷なことは何一つ言ってない。君が人に助けられた命を、ああいう危険なことをしてまでも投げ打つ価値が、本当にその人たちにあったのかって、僕は聞きたいんだけど」
 もう、何も答えられなかった。テラの言うことは正しい。自分が今ここに存在するためには、何かひとつでも確かな理由が必要だと思い込んでいた。自分は無事に助かったのだから村人たちも助けてやらなければ、という焦りに駆られて、周りが見えなくなっていたことに気づいた。
 まずは自分を大事にしろ、と。テラの言葉の端々からその思いが伝わってくる。
「俺一人だけ助かって、本当に良かったのかな」
 そうは感じていても、ぽつりと、自然に口からこぼれた言葉。テラはそれを聞いて少し困ったような表情をしていたが、今までよりも穏やかな口調で言った。
「そんな難しいことを考え込まなくたって、君は今、自分の身を守ることだけ考えていればいいよ」

 日没の時が近づいていた。そろそろ俺たちは、王宮の人間に見つからずに、できるだけ早く家に戻る方法を考えなくてはならなかった。
「いつまで子供みたいにぐずぐずしてるの。みっともない」
 これ以上相手にしていられない、面倒臭い、と呟くとテラは立ち上がり、役に立ちそうなものが欲しいと言いながら部屋の中を探り始める。俺の方はというと、すっかり疲れ切ってしまっていて立ち上がる気力すら削がれてしまっていた。
 強風が小屋全体をがたがたと揺さぶっている。雨も一向に止む気配はなく、辺りはますます暗くなってきた。
 間違っても助けに行こうなどと考えるな、というツヴァイクの言葉を思い出し、溜め息をつく。何も関係のないテラも巻き込んでおいてこの有様だ。二人に見放されるという最悪の事態への不安も頭をよぎり、俺はすっかり落ち込んでいた。
 テラは部屋の隅にあった大きな木箱から古びたランプをひとつ見つけ、取り出した。その瞬間、火を点けてもいないのにランプが光り始めた。俺はすぐに魔法の技術を応用して作られた道具だと直感した。
「お前、そんなものが扱えるのか」
 テラはもう何も言わなかった。俺のせいで随分と疲れさせてしまったから、彼にこれ以上は話しかけない方がいいだろう。
 橙色の柔らかな灯りが部屋全体を照らし始める。この国では魔法に関する品物はあまり出回っていないと耳にしたことがある。それがなぜ、こんな場所に放置されているのだろうか。いくら考えても俺には理由が想像できなかった。
 部屋の中が少し明るくなったお陰で、沈んでいた心もわずかに軽くなったような気がした。揺らぐ灯りを見つめながらこれからのことを考える。
 雨が強く降っている中では行動ができない。必然的に雨が止むか弱まるのを待つことにはなるが、問題は帰り道だ。他の人間に見つからずに一旦王都近くまで戻り、そこから帰路につくと考えても、かなりの時間がかかるだろう。
 ツヴァイクとテラには既に多大な迷惑をかけてしまっている。そうとなれば、落ち込んでいる暇など俺にはないはずだ。少しでも状況を良くするために、動かなくてはならない。
 俺もようやく立ち上がり、何か役に立ちそうなものはないかと、まずは近くにあった机の上の物を一つずつ見ていく。どこの国の言葉で書かれているのか理解できない本、同じく奇怪な文字で書かれた設計図のようなものが散乱している。この家の住人は何か怪しい研究でもしていたのだろうか。
 ふと目に留まったのは、机の上に無造作に転がされていた、親指の長さほどの細長い宝石だった。両方に尖った先端を持っており、よく熟れたオレンジの中身のような透き通った黄色をしている。表面に薄く積もった埃を払い落とすと、宝石はほのかに白い光を放ち出した。
「それ、見たことある!」
 俺の手の中が白く光っている様子を見たテラが、血相を変えて駆け寄ってきた。
「これのことか?」
「うん。ツヴァイクが昔見せてくれた。それがあまりにも綺麗だったからよく覚えてる」
「あいつもこれと同じようなものを持ってるってことか」
 しかし、これはどこからどう見ても普通の宝石にしか見えない。かなり丁寧に磨かれているようで、表面には一つの傷もなく輝いている。だが、自分から光を放つ宝石など聞いたことはない。
「これ、どういう時に光るんだろうな。知ってるか?」
 テラは首を横に振ったが、でも、と続ける。
「もしかしたら僕の考えが間違っているかもしれないけど。ツヴァイクの手元にあるものとこれ、正真正銘本物の宝石だと思う」
 そう言われてみると、確かに安価な作り物には見えない。例え人の手によって宝石の質感を精巧に再現したものであったとしても、ただ触れただけで光り出すように設計するのは不可能だろう。だがそれができる唯一の技術と言われれば、思い浮かぶのは魔法だ。テラも魔法の関与を疑っているようだった。
「おそらく、魔法を扱える人間が何らかの意図を持ってこれを作ったんだ。身に着けるものか、飾るためのものか、儀式か何かに必要なものなのか……ツヴァイクは手製のお守りだって言っていたけど」
「お守りということは、持っているだけでその力を発揮するものかもしれないな」
 お守りと一口に言っても、色々な種類が思い浮かぶ。しばしの間、俺たちはほのかに輝きを放つお守りを見つめながら考え込んだ。
 俺は決して博識ではないし、工夫の才があるわけでもないので、確証は持てないのだが。
「お互いの存在を感じ取って光り出すとか、ありえないかな」
 ふと思いついたことを口に出してみた。人の手によってひとつひとつ作られたお守りならば、それらが共鳴して場所を探知できるように設計することも可能であるはずだ。故郷で俺の父親や村の重役たちが着けていた腕環には魔法による仕掛けが施されており、互いの居場所を知らせる役割を果たしていたことを思い出したのだ。この話を聞くとテラも想像ができたようで、あるかも、と呟いた。単なる俺の思いつきでしかないが、他に何も手掛かりがない以上、行動してみるしかない。
「うまくいかないかもしれねえけど、やってみる価値はあると思うぞ。ここにずっと留まっていてもどうしようもない」
「僕も同感だ。途中で王宮の人間がいても喧嘩売ったりしないでよ」
 俺たち二人の意見がひとまず一致したところで、丁度良く雨風が弱まったようだった。この荒天の中、 無事に家に辿り着けるか不安で仕方がなかったが、さっきまでよりは少しだけ、前向きに歩けそうな気がした。
 右手に握り締めた宝石が、微かに熱を持ち始めている。

 雨風に打たれながらも徐々に強くなる光と熱を頼りに進んで行き、家へと続く道を見つけ出すことができた。ずぶ濡れの俺とテラを見て一瞬肝を冷やしたらしいツヴァイクも、目立った怪我はないとわかると安堵したようだった。

 暖炉の前で濡れた身体を拭いていると、ツヴァイクが俺に歩み寄ってきた。
「今のうちに言っておきたいことはないか、ゼロ」
「……無事に帰って来れただけでも、良かったと思う」
 俺がそう言い終わった直後、襟元を物凄い勢いで掴まれた。額がぶつかりそうなほど寄せられた顔面にただならぬ気迫を感じて、背筋が凍りつく。
「もう少し後先のことを考えてから行動してくれないか。お前が軽率なことをしたせいで王宮の人間に目をつけられたんだろうが。俺はお前を無駄死にさせるために助けたんじゃない」
「そんなこと、わかってるよ」
 真っ直ぐな視線が痛くて、目を逸らした。凄みに圧倒され自信なさげに発した言葉が、彼の耳には生返事に聞こえたようで、胸倉を掴む力がまた強くなった。
「お前、いい加減に——」
「ツヴァイク、こいつ相当懲りてるからそのぐらいにしてあげて」
 雨で湿った髪を拭きながら、テラがきっぱりとそう言った。そして、庇うのはもうナシだから、と言うように俺の方を一瞥する。
 ツヴァイクはやや不服そうな顔をしつつも、自分の椅子に座り直した。
「テラが追いつけたからまだ良かったが、少しでも遅かったらお前は今頃ここにはいなかっただろうな。お前の名前も顔も割れている以上、今日のような行動は暫く慎んでもらうぞ」
「……迷惑かけて悪かった。テラと話して、大事にすべきものがもっと他にあるって思ったよ」
 ツヴァイクは何も言わず頷くと、自分の分のカップに口をつけた。用意する余裕もなかったのだろうか、昨日のようにコーヒーではなく、差し出されたカップには湯が注がれている。
「それで、お前たちはどうやって帰ってきた」
 テラと俺は顔を見合わせ、懐にしまっていたあの宝石をテーブルの上に置いた。それを見たツヴァイクの表情が少しだけ曇る。
「……これは」
「雨宿りのために寄り道した時、入ったボロ小屋の中で見つけた。お前が持ってるものと共鳴するかもしれない、って思ってたら、正解だったみたいだ。この光の強さと温もりを利用してここを探したんだ」
「驚いた。ただの石ころだと思っていたが、そんなことができたとは」
 聞けば、この宝石は彼の昔の友人がお守りとして作ったものなのだと言う。これと同じものは世界に三つしかないらしく、なぜこれが街外れの森の無人の廃小屋の中に放置されていたのかは、ツヴァイクにもわからないようだった。
「同じようなもの、あの時見せてくれたよね」
「ああ。随分と前のことだった気がするが、よく覚えているな」
 宝石について二人が話している間、ふと疑問に思ったことを口にしてしまった。
「世界に三つしかないってことは、お前の他にあと二人これを持っている奴がいるってことか。そいつらはどうしたんだ?」
——あ、あまりにも無神経な質問だったかもしれない。そのことに気づいたのは、滅多に隙を見せないツヴァイクの紅い瞳の中に、深い憂いの色が見えたからだ。
「死んだよ」
 俺もテラも、それ以上は何も言わなかった。言えなかったと言った方が適当かもしれない。

 二人は自分の分の飲み物を飲み終えると、各々の部屋に戻っていった。俺は誰もいなくなった部屋でしばらく考え込んでいた。今日のこと。この家の住人たちのこと。そして、俺自身のこと。

 雨はまだ、勢いを止めることなく降り続いている。何となくすっきりしないものを内側に抱えたまま、四日目の夜が更けていった。


 誰かに話して聞かせるよりも、書き留めていく方が向いていることに気づいた。そういう話を祖父に零したところ、片付けに困っていたから丁度良かったと、大量の紙の束を渡された。
 まるで詩人か学者にでもなれと言わんばかりの量のこの紙束を減らすために、毎日の記録や覚書をしていこうと思う。
 儀式まであと五ヶ月を切っている。前回までは周りの大人たちに指示された雑務をこなしているだけで良かったが、今回からは重要な役割も任される。覚えなければならないことが多い。しかも、足を引っ張ったら許さないとマティーニに釘を刺されている。気を引き締めなくてはならない。
 明日は朝から、うちのご老体の断捨離と片付けに付き合えとのお達しだ。本を棚に並べる順番から椅子と机の位置まで、適切な位置にあるかどうか細かく”試験”が行われるから正直憂鬱だ。しかし憂鬱だと書いたところで、”明日”が拗ねてしまって逃げていくというわけではないから、どうしようもない。

 こんなものだろうか、日々の記録というものは。明日からも書いていけばその意義もわかるのだろうか。
 そういう意味では、明日には、いつも通り来てほしいと思っている。


 物心ついた頃から繰り返し見せられたのは、神官として村の儀式を執り行う父の姿だった。
 まだ小さかった俺にはその意味は理解し難いものだったが、歌と舞で祈りを捧げる父や村の人間たちをどこか冷めた気持ちで見つめていた。俺もあのように振る舞わなくてはならないのだろうか。歳を重ねるごとに、自分の意思とは異なる力によって将来が決定づけられていることへの不信感が募っていった。
 だが、決して音楽が嫌いだったわけではない。むしろ、音楽を自分の意のままに紡ぐことができる瞬間は、どんなに辛いことでも忘れられた。

 息を、大きく吸い込む。息が音となって喉を震わせ、やがて空間全体に響き始めるこの瞬間に、何物にも代え難い熱情を感じる。歌い出しは今日やった中で一番良いだろう。いや、訓練が始まって以来の出来かもしれない。後はひたすら頭に叩き込んだ誦文を音に乗せていくだけだ。

 父に続く次の神官としての訓練が始まったのは一ヶ月ほど前のことだった。本当はこのように訓練など積まなくても、ある瞬間から身体に音と言葉が刻み込まれていることに気づくのだという。父は俺とあまり変わらないぐらいの歳から既に神事に参加していたそうだし、今年二歳になる俺の妹は最近「十数代に一人の天才」と呼ばれ騒がれていた。それなのにこうして俺がわざわざ訓練を受けている理由は至極単純である。生まれたときから出来損ないだった俺は、先の代から受け継がれてくるはずの音と言葉を持っていなかったからだ。

 突然、猛吹雪に攫われたように視界が白く染まった。どこまでも眩しい光の靄のずっと向こうに、何かの影が見える。俺が儀式のための詞文を歌っていると必ず現れる光景だ。遥か昔からその姿を知っているような妙な懐かしさに導かれ、手を伸ばす。手を伸ばしたところで到底届かない距離があったが、その何かの手を取らなければならないと思っていた。気づいて欲しくて自然と歌声に熱が入る。
 それでも、その何かは一度も振り向くことはない。いつもそうだった。

 そしてその光景は、次の瞬間俺の腹に入れられた突きによって呆気なく打ち砕かれる。
 鈍痛と共に吹雪は止み、追い求めていた影も一瞬のうちに消え去った。
「……だめですね。詞文が一節抜け落ちた。どうせ余計なことでも考えていたんでしょう」
 一人の男が痛みのあまり床に崩れ落ちて蹲る俺にそう言い放った。
 口答えすればさらに仕打ちは激しくなる。腹の底から湧き上がる苛立ちを抑えようと歯を食い縛った。
「覚える為の時間なら山ほど与えてやっただろう。昨日も同じ所で躓いた。いつまで経っても本当に学習しないんだな」
 うるさい、と叫び出しそうな気持ちをぐっと堪える。
 詠唱の途中であの謎めいた光景が瞼の裏に浮かんだ、あれは絶対に俺の雑念なんかじゃない。そう確信を持って言えるのに、俺を扱き下ろす罵声と暴力は声を上げることすらも許してくれない。
「あれを用意しろ。マティーニが保管しているはずだ。入口にいるはずだから呼んで来い」
 いつまでも寝てるんじゃない、と伸ばされた手を、せめてもの抵抗にと、力任せに振り解いた。いつの間にか奴が持っていた硝子の小瓶が落下して砕け散る音がした。中に詰められていた液体が汚く飛び散る。
「この出来損ないめが」
 罵声はわかりやすく苛立っていた。語気が荒くなるにつれて、振り下ろされる掌の力も強くなった。奴らの手から逃げようと転げ回る俺の皮膚は、割れた硝子の破片に裂かれて赤く汚れていた。

——お前にこの村のすべてが懸かっている。それはしっかり理解しているんだろうな。
——村にもしものことがあってからでは遅いから、こうして訓練をしているんだ。

 知るかそんなこと。俺だって望んでこうしているわけじゃない。

 奴らの手にはさっき割ったはずの小瓶がまた握られており、否応なくそれを口に入れさせようとする。そこまでしてそれを俺に飲ませたいのだろうか。こいつが俺の中を満たしていて魔力とやらを与えているというのなら、俺の血だってもう既にこんな色をしていてもおかしくはないはずだ。目が眩みそうな程に毒々しい桃色だ。見ているだけで気分が悪くなりそうなそれを飲み干せるわけもなく、石畳の上に吐き捨てた。

 知らない。この村のことなんて何も知らない。俺の家系がどうのこうのだとか、使えもしない魔法のこと、何もかもどうでもいい。無力な人間に、こんな子供にすべてを背負わせようだなんて、狂っている。
 絶え間なく浴びせられる暴力の雨の中で、いつの間にか俺の右手が小刀を握っていることに気づく。おかしい。俺は何も持たされずにこの部屋に連れて来られたはずだった。しかも不思議なことに、周りの人間は俺がそんな物騒な物を手にしていることに一切気がついていないようだった。

——殺してしまえばいい。
 この状況を疑問に思うよりも先に、頭の中で、声が響く。

 素直にその声に従うことにした俺は、もう一度息を深く吸い込み、儀式のための歌を歌い始めた。
 詠唱の訓練と同時に、護身術や接近戦の訓練も始まっている。その時に叩き込まれた内容を思い出し、俺を取り囲む人間のうちの一人の喉目掛けて刃物を突き刺した。奴は刺されたとわかった瞬間に大きく目を見開き、もがきながら倒れた。そいつの喉から刃物を引き抜き、間髪入れずにその横にいた奴の首元を切りつける。
 その間もずっと、俺は歌い続ける。突然のことに周囲の人間は驚きどよめいていたが、この非常事態をようやく飲み込めたらしく、一斉に俺を取り押さえようとする。迫ってくる無数の手を躱しながらも、俺は歌い続ける。身体は自分が想像した通りに自在に動かせることができたが、どういうわけかあの吹雪は現れなかった。しかし、そんなことは気にも留めない。俺は積もりに積もった恨みを晴らすべく小刀を振るっていた。半ば本能的に歌を歌い、この上なく高揚していた。
 やっと。やっと報復ができるのだ。そして、俺は自由をこの手に掴むことができる。俺は狂ったように笑いながら歌を歌い続けていた。
 いつの間にか周りの人間はほぼ全員床に伏しており、あちこちに赤い飛沫が撒き散らされている。俺の身体も服も、返り血を浴びてそこから大小様々な大きさの赤い花が咲いているように見えた。
 最後の一人、こちらに走り寄ってきた男の顔を認識した瞬間、驚きのあまり全身が硬直した——嘘だ、あれは、あいつは。
 この場所にいるはずのないその姿に激しく動揺し、その顔面に刃を突き立てた瞬間、視界が暗転する。

「……もう、やめてくれ」

 上半身だけ起こし、俺は小さく身体を丸めて息を詰まらせていた。胸の奥が、激しく波打っている。
 ここには誰も昔のように暴力を振るう人間はいない。頭では理解していても、手の震えはいつまでも止まらなかった。

 ここに来てから今日で九日が経とうとしている。あまりよく眠れていないのか、昔の出来事を夢に見ることが少なくない。しかし、今日のものは少し違っていた。
 幼少期に故郷の人間に暴力を振るわれていて、今でもそれを憎んでいるのは事実だ。しかし、奴らに抵抗して逆に怪我を負わせたことは一度もなかった。これが俺の奥底に眠っていた欲心だったのかもしれないと思うと、恐ろしくてたまらなかった。
 極め付けは、最後に走り寄ってきたあの男の姿だ。まるでよく磨かれた金属のような色をした銀髪に紅色の瞳。夢の中の風景だからぼんやりとしかその姿は覚えていないが、その外見的特徴から結びつく人間は、俺の周りにただひとりしかいなかった。
 ただの偶然、単なる夢だと思いたい自分と、どうしても引っ掛かりを覚えている自分がいる。だが、考えるだけ無駄のような気がした。姿が似ている人間なんて、この国だけでも大勢いるだろう。それに夢というものはその筋書きを自分に都合の良いように、しかも無意識のうちに書き換えることができてしまうものだから、あまり信用できた物語ではないのだ。そう自分に言い聞かせた。

 また目元がむくんでいることを突っ込まれるかもしれない。そろそろ言い訳の品揃えも少なくなってきた。
 いつも通り、何もなかったように振る舞おうと自分の頬を叩き、俺はコーヒーの香りのする部屋へと向かった。

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