「いやあ、良い景色だな! あと空気が美味い!」
背後からテラに「あまりはしゃぎすぎないでよね」と声をかけられた。どんな顔をしているかは分からないが、いつものようにじとりとした視線を向けられていることだろう。
「分かってるって」と適当に返事をしながら、息を大きく吸い込む。息が音となって喉を震わせ、やがて辺り一体に響き始める。
地下牢ではすぐに声が反射してこちらまで返ってくるのだが、ここはまるで違う。音は放たれた瞬間に分散して自然の中に溶け込んでいく。風が木の葉を振るわせる音、動物の声、それらすべてとひとつになる。初めて味わう感覚に心が震えた。
これだけは俺の譲れないもの。誰に虐げられても疎まれても、歌だけは俺の味方だ。
しばらくの間、歌いたいという衝動に身を任せていた。テラはしばらくの間、呆気に取られていたようだが、俺が満足するまでじっと見守ってくれていた。
「拍手でもした方がいい?」
俺が歌い終わるとテラは静かに言った。そういえば、王宮を脱出して匿われてから、彼らの前で歌うのは初めてだった。
「別に要らないぞ。誰かのために歌ってるわけじゃないからな」
俺がそう言うと、テラはたちまち不思議そうな顔をした。
「まあ、綺麗な声してるし、特技があるのはいいんじゃない」
思わず自分の耳を疑った。テラが俺を褒めるだなんて、どういう風の吹き回しなのか。だけど、これも彼との距離が縮まった証拠だろう。嬉しいと素直に感じる。
「あ! いまお前、初めて俺のこと褒めたな! もっと言ってくれてもいいんだぜ」
俺はニヤリと笑いながら囃し立てる。
「事実を述べただけ。勘違いしないで」
彼は不服そうな顔をしながらも、その言葉の端からは嫌味などは感じない。
「君、本当に変わってるよね」
「そうか? お前もかなり変な奴だぜ」
「変な奴で結構。でも君よりはましさ」
いつものつっけんどんなテラも健在だった。だけど、これくらいわかりやすい奴は好きだ。面白いから。
「よし、満足した。さっさと帰ろう。外に出てるってバレたら、お前まで叱られるしな」
「そうしよう。君だけならまだしも、僕まで一緒に怒られるのは嫌だ」
俺が怒られるのはいいのかよ、と口から文句が出かけた。だが、俺の立場がもっと無くなってしまうので、ぐっと我慢しよう。やるじゃないか俺。
ここから少し歩いた先に良い場所があるから行こう。ツヴァイクが留守にしている昼間、テラが唐突に話しかけてきた。
返事をする時間も与えてもらえず支度をさせられて向かった先は、周辺の山々を望むことができる小さな崖だった。人が手を加えたのではない、自然が作った小さな見晴らし台のような場所だった。澄んだ空気を全身で味わう間、俺は暗い気持ちを忘れていられた。ここ数日間あまりにも俺が塞ぎ込んでいたため、まともに見ていられなかったのだとテラは言う。良い気分転換になったと思う。
知り合ってまだ間もないが、彼は他人が求めているものを的確に捉え、言動にして返すのが上手な人間だと感じていた。こういう細やかな気遣いができる人のことを、優しいと言うのだろう。
俺は何だか胸にじんと来て、テラに向き直り「ありがとうな」と言った。彼は何とも思っていないといった素振りをしつつも、「気が済んだならよかった」と答えた。
それにしても天気が良い。王都周辺の雑然とした街並みより、木々が生い茂る深い自然の中にいる方が俺は好きだ。秋晴れの景色を味わいながら、俺たちは家までの道をのんびりと——そして無用心に歩いていた。
その道中で俺は、俺たちのものではない足音を耳にし、歩を止めた。
——動物のそれとは違う、人間が土を踏みしめる重い音。
テラが「聞き間違いでしょ」と気にも留めず、訝しむ俺を追い抜いて行こうとした、そのときだった。
「ゼロ・ディグニハイト。君だな」
男の声に背後から呼び止められ、胸がどきりと音を立てた。ツヴァイクか。いや、この声は彼よりももうひと回り低い。
振り返ると、そこには大柄な男がいた。男は被っていたローブを取り払って顔を露わにした。短く硬そうな黒髪が風に揺れる。男の顔に見覚えはなく、どこかで顔を合わせた記憶もない。
「知らないな。人違いだろ」
俺は咄嗟に他人のフリをすることにした。名前を知られている動揺を悟られないように背を向けて、不安げな表情をしたテラのもとへ追いつこうとした。
「私はデューク・アルトマン。君が住んでいた村のことを調べている」
それでも男は構わず語りかけてきた。村、という言葉にまた胸がざわついた。最近昔のことで寝覚が悪いのもあり、村のことはできれば思い返したくなかった。この男は今更何を掘り返そうとしているのだろうか。
「人違いだっつってんだろ。他を当たれよ」
俺は激しい不快感を覚え、吐き捨てるように言った。
「妹の現在。知りたくはないか」
見知らぬ男が、はっきりとした声でそう問いかける。俺は背筋が凍る思いがした。
妹。いまこの男はたしかに、俺に向かって妹と口にした。聞き捨てならない。テラやツヴァイクにすら伝えていないことだ。なぜこの男は、俺の前で妹という言葉を使ったのか。
「妹……?」見守っていたテラも不思議そうに呟く。
「君たちに危害を加えるつもりはない。信用ならないだろうが、少しだけ私の話を聞いてもらえないか」
「……それより、何でお前が知ってんだ。お前、何者だ?」
俺は男を睨みつける。男も厳粛な表情を崩すことなく、俺をじっと見据える。
風が不気味なほどに爽やかに、小道を通り抜けていった。
クレイウス王宮。窓からは西日が差し込み、青と白を基調とした美しい内装を眩しく照らす。
王族が住まう居館には認められた者しか立ち入ることができない。廊下には数名の護衛兵が並ぶ他には人の姿はなかった。
目的地は廊下の突き当たりの部屋だ。軽く周囲を見回して護衛兵の顔ぶれをさりげなく確認した後、デュークはゆっくりと扉を叩く。数は二回。内側から解錠する音を聞き、デュークは部屋の中へ歩みを進めた。
城内でも一際大きな部屋の中央に、長髪の大柄な人影がある。こちらに背を向けて窓の外を眺めていたその人は、カーテンを閉めながら静かに問い掛ける。
「誰にも見られずに、ここまで来れたかい」
「居館の護衛以外には、誰にも」
アルフィリアは、デュークの言葉を聞いて口元を緩ませた。陽の光を遮った薄暗い部屋の中でも、彼の微笑みは明るい輝きを失わない。
誰の目にも触れずに王宮の中を移動するのは至難の技だ。しかし、それほどに細心の注意を払わなければならない理由がある。
”継承戦争”が勃発してから、王宮は二つの派閥に分断された。「アルフィリア王子こそが王に相応しい」と雄弁に語ってきたある貴族が、その裏でロベルトと密接に関わっていたという出来事もあった。今のデュークにとって、心から信用できる人間は片手で数えるほどしかいない。
「ならば良いよ。弟とその使用人一派にさえ目撃されていなければ。部屋の中も念入りに確かめたから、盗み聞きなどはされていないはずだ」
アルフィリア・バークレイ・ツー・クレイウス。現国王の実の子であり、正真正銘の直系の王族である。剣術の達人でありクレイウス家と密接な繋がりがあった祖父の縁で、デュークは彼の最も近い場所に立つことを許されている。
アルフィリアは植物を愛で、自らの手で栽培し、薬草の研究と普及にも尽力していた。そして、美を追求した立ち振る舞いの中に、朗らかで人情味に富んだ性格を併せ持つことから、ついた異名は“花の王子”である。直系の王族であるからして王位継承権は第一位であり、本来ならば彼が王位を継ぐべきであった。
デュークがアルフィリア王子の部屋に呼ばれる機会は滅多にない。どうしても書類仕事が終わらない時の手伝いをする時ぐらいであろうか。彼らが二人きりで話をするとき、アルフィリアはデュークを植物園へ呼び出すのが習慣だった。お気に入りの場所を避けてわざわざ警備兵付きの自室を選んだということは、余程他聞を憚る話であることは間違いないと踏んでいた。
「それで、話というのは」
「単刀直入に言う。僕はついに命を狙われ始めているようだ」
アルフィリアの語り口はいつも自信に満ちていて、それでいて嫌味や皮肉など一切感じない親しみやすさを持っていた。それが、今このときは精彩を欠くように沈んでいた。デュークは驚きのあまり、言葉を発することができなかった。
アルフィリアは続けて、昨晩の夕食後に用意された薬草茶に致死性の毒が混入されていたこと、毎夜茶を差し入れる担当である使用人はロベルト派の軍幹部と繋がりがある者であったことを告げた。
「植物由来の毒でしょうか」
「そう。それも僕が育てている植物園のね。匂いで気付いてそれ以上手を付けなかったから命拾いした。あれは、微量でも摂取すれば生命の危険をもたらす猛毒なのだ」
継承戦争勃発以後、植物園にはアルフィリアの許可を得た者しか立ち入ることができない。そこではアルフィリアが各地を回って手に入れた希少な薬草たちが数多く育てられている。その中には、生き物に害を及ぼすと言われる危険な植物も存在している。この状況下で、彼がロベルトとその周辺の人物に、自身の貴重な財産である植物園への立ち入りを許すはずがない。
だが、混ぜられた毒の原料が植物園から採取され持ち出されていたことを、既に彼は突き止めている。
「それは、本当にロベルト様の仕業なのでしょうか」
アルフィリアは目を伏せ、より一層険しい表情を見せる。
「僕だって、こんなことは決して言いたくない。守衛の目を盗んで植物園に立ち入ることは不可能だと思っていた。だが、弟の一派はよほど僕を排除したいのだろう。守衛の目を誤魔化したか、あるいは守衛も共犯だったか……誰も信用ができない」
「まさか、あの御方がそのようなことを……」
デュークはただただ驚くばかりであった。未遂であったとはいえ、己の主人の危機を察知できなかったことを思うと、側近として情けない気持ちで一杯になる。
アルフィリアとロベルトは今でこそ激しく対立しているものの、以前は仲睦まじく、共に王族としての役割を果たそうと力を注いでいた。それが、いつからだっただろうか、ロベルトが人々の前に顔を出すことが少なくなり、次第にアルフィリアとの関係が悪化し始めたのは。
「彼が次期国王の座にそんなに固執する理由は何なんだ。その目的は、兄を殺めてまでも成し遂げたいものなのか……僕には理解できない。あいつの本心が分からない」
アルフィリアの澄んだ青空のような瞳は、今は見る影もなく暗く沈んでいた。弟に憎まれる事の辛さは耐え難いものがあるだろう。
「お気を確かに。殿下はこの私が必ずお守りします。貴方様を危険に晒すようなことは、誰であっても許しはしません」
「それが、例え僕の弟——クレイウス王の子であろうともか?」
アルフィリアは試すような目でデュークを見た。デュークも真正面から主人の瞳を見据える。そして、ひとつひとつ丁寧に、言葉を選びながら考えを口にする。
「……私は、王家に仕える身。証拠の一つも突き出せないままロベルト様を疑うことなどできません。しかし、あの御方の周りで何かしらの陰謀が働いていることは間違いないでしょう」
「ああ、そうとしか思えない。あの女使用人も片棒を担いでいるに違いない」
「王位継承の儀の前に決着をつけましょう」
こうしている間にも、現国王の容態は悪化の一途を辿っている。そして、城内でも世間でも、ロベルトの即位を望む声が高まっている。
これは一刻を争う戦いだ。デュークは己に言い聞かせる。
決意に満ちた側近の言葉に、アルフィリアは少しだけ表情を緩めた。
「君を一番に信頼しているよ。だが、突っ走り過ぎないようにしておくれよ。君までも居なくなってしまえば、僕はとうとう独りだから」
アルフィリアの笑顔を見ると、この方の国を想う心こそが本物なのだと思い直すことができる。
デュークは深く一礼して、部屋を後にした。
アルフィリア王子暗殺未遂事件から一週間が流れた。
しばらくの間、変わった出来事は特に起きなかった。ロベルトの周辺を部下に探らせつつ、デュークは日々の実務に明け暮れていた。不定期で上がる報告を整理していくと、少しずつだが、闇に覆われたロベルトの目的が浮かび上がってきた。
五年前に地図から消された集落、リェス・ドゥガー村。公式の記録には王国への叛逆の意思を示したとして処罰の対象となったと記されているが、実際はこれが全くの虚偽で、村は極めて閉鎖的ではあったが王国に対して反乱を企てたことは一度も無かったのだという。この事実だけでも明るみになれば、ロベルト派にとっては非常に大きな痛手となるだろう。
最近は、アルフィリアに仕える上級使用人仲間であるエルゼが、仕事の合間を縫って情報の集約の手伝いをしてくれていた。同僚を巻き込むことは出来るだけ避けたかったのだが、彼女は複数人で情報を共有しておく方が不測の事態が起きた際に対応しやすいと言って聞かなかった。多忙な実務の間、少しでも時間ができればデュークの仕事部屋に集まり、これからどのような手を打つべきかを模索していた。
「この村の統治、凄く独特なのね。首長となる存在はおらず、三つの一族が分担して支配権を握っていた、と。古代の政治のようね」
エルゼは部下から手渡された報告に興味深そうに目を通す。
「その人たちを探して事情を聞くことができれば、何か分かるかもしれない」
「彼らが今でも生きていれば、の話だがな」
——村は壊滅。多数の死傷者を出す。施設内で死亡した者を除くと二十数名ほどが王宮軍の捕虜として現在まで収容されていたが、先日全員が施設から逃走。その後、城下町周辺で発見され再び収監された者、または遺体となって見つかった者までいるようだった。
無機質な文字列で綴られる迫害。弾圧。直接手を下さないまでも、王宮の人間であるというだけで自分も同罪であるとデュークは考えていた。だからこそ、ロベルトの所業を余すところなく暴かなければならない。
エルゼが淹れた紅茶に口を付ける。重苦しい問題には似合わない、茶葉の爽やかな甘みが口の中に広がった。
「最近よく村民が軍に捕まったという報告を聞くから、厳しいかもしれないね。軍部への介入はできそう?」
デュークは首を振った。軍の内部の調査は随分と前から試みているのだが、実現しそうにはなかった。
王宮軍の実権を握っているのもロベルトだった。ほんの数週間前ならば王宮軍に話の分かる幹部がいたのだが、再編成のためと僻地に左遷されてしまった。非協力的な人間を排除しようとしているのだ。軍への手回しは困難を極めると予想された。
エルゼもデュークの反応を見るなり、肩をすくめた。下手に動けば、己の敬愛する第一王子の顔に泥を塗るような事態にもなりかねない。もどかしい時間だけが流れていく。
その日の夕暮れ、デュークは他の使用人たちと公務についての会合を終えて、自らの居室へと戻っていた。
会議の場には、ロベルトに最も近い存在である女使用人、イリーナの姿もあった。ロベルト派の貴族が推し進める議題が大半を占め、一方でアルフィリア派の貴族には発言権はないに等しい。ロベルトの影響力が強まっていることを嫌でも感じてしまう。
魔術を国力強化の要にする、そのこと自体には決して反対ではない。
争いの種は常にあちこちに埋められていて、それがいつ芽吹き始めるかは予想がつかない。大規模な領土と人口、さらには国防のための技術基盤の整備に力を注ぐクレイウス王国でさえも、いつ隣国から侵略をされてもおかしくない。その武器が強力な魔法であったなら、“魔法後進国”であるクレイウス王国は手も足も出せないまま屈服せざるを得なくなる。イリーナがいつか言った通り、どんなに巧く作られた武器を持っていたとしても、人智を超えた力には敵わないのだ。
問題はたったひとつで、ロベルトは一国の王にするには危うすぎる存在であった。どれだけ人の道に背くような行いを陰でしていても、彼は人間の心理を巧みに操ることに長けていた。彼の思想・語り口・振る舞いに魅了された人間は、たちまちロベルト派に加わった。まさに、魔法にかけられたかのように。
使用人の居室に戻る薄暗い廊下を歩いていたところで、デュークは違和感を覚えた。使用人の居室には警備兵はついておらず、会合も随分と遅い時間に行われていたのだが、人の気配を感じた。そしてその気配は、自分が歩いている廊下の最奥と——背後から近付いていた。
早く居室に戻らなければ。その一心で歩みを進めようとした途端、脚に力が入らなくなる。その場に縫いつけられたかのように、動けない。脚に力を込めて一歩踏み出そうとするも、少しも体を動かすことができない。己の身にありえない現象が起きていることを一瞬で理解し、デュークの額に脂汗が滲んだ。
身動きが取れなくなったデュークの眼前に、五人ほどの男たちが立ち塞がる。王宮軍の兵士たちであった。そのうちの一人は小型な杖をこちらへと差し向け、低く小さな声で呪文を唱えていた。首を後ろに向けることすらもできないが、恐らくは背後も囲まれている。
「久しいな。公爵」
デュークの背後から金髪の男が現れた。
ロベルト・ヴィルヘルム・ツー・クレイウス。妾の子であるにもかかわらず、絶大なカリスマ性を持つ第二王子。金銀様々な装飾品が、身分の高貴さを雄弁に語っている。長く伸びた前髪の下から、凶暴な色を滲ませた瞳がデュークを射抜く。予想だにしていなかった人物との遭遇に息を呑んだ。
「本日この時をもって、アルトマン家の貴族の地位を剥奪する。王の命令だ。君を失うのは非常に惜しいが、父上の命令には従ってもらう」
ロベルトは国王の印が押された書状をデュークの目の前に突き付けた。デュークはそこに当主である父の名が記されていることに気付き、愕然とした。
それでも、デュークは毅然とした態度でロベルトへと対峙する。全身の力が抜けていく中、ロベルトに向かって声を荒げた。
「……正当な理由を、説明していただいておりませんが」
デュークの決死の言葉を鼻で笑うと、ロベルトは不愉快極まりないといった表情で言い放った。
「僕が気が付かないと思ったのか? 君が使用人たちを集めて僕の周りを嗅ぎ回っているということに」
デュークは唇をぐっと噛み締めた。察知されないように動いていたはずが、全てロベルトには筒抜けだったのだ。
「君の部下たちには、僕が直接会いに行った。健気な部下たちじゃないか。皆すぐには吐こうとしなかった」
こんな暴挙が許されていいはずがない。しかし、決定が覆る気配はなさそうだった。もはやここまでか。
抵抗の意思がないと見なされ魔法による拘束を解かれたデュークは、ロベルトの部下たちに連れられて力無く歩みを進める。僅かに振り返り、没落貴族となった自分を見送るロベルトを睨んだ。
その歪んだ冷笑を、デュークは忘れることはないだろう。
最低限の荷物のみしか持つことを許されず、剣などの武具は全て没収された。
確かに書状には王の印が押されていた。しかし、王の病態は重く、自ら意思決定ができる状況ではなかったはずだ。全てロベルトに仕組まれたのだ。数名の役人と兵士に連れ添われて王宮を離れる間、デュークは険悪の形相を隠せなかった。
ロベルトがこれまで行ってきた所業を振り返ると、手荒い手段を取られなかっただけ運が良かったのだろう。
しばらくの間は生活の維持にも苦労しそうだ。家族のことが気掛かりであり、早く父が治める領地へと戻りたい気持ちもあったのだが、アルフィリアの悲痛な表情が脳裏に焼き付いて離れなかった。彼が悲観に暮れるところを、一週間前、デュークは初めて目にした。アルフィリアに忠誠を誓った身である。何としてでも王宮に舞い戻り、アルフィリアを救い、この国を建て直さなければならない。
だが、自分は一介の使用人である。それもたった今、首を飛ばされたばかりの。頼る当てもなければ、この身一つでロベルトに立ち向かう策もない。
いつの間にか日は完全に沈み、露店街は色とりどりの灯りで照らされている。今夜はまず身を落ち着けるための場所を探すしかなさそうだ。宿屋が集まる通りを目指し、デュークは人で溢れ返る路地を歩くことにした。
その時だった。
一人の少女が鼻歌を歌いながらデュークの視界を横切った。黒く美麗な服に身を包み、赤いリボンで飾り付けた髪は雪のように白い。
白い髪。もしや、あの村の住民ではないだろうか?
少女はデュークの視線に気が付き、振り向いて訝しげにこちらを見る。デュークは咄嗟に少女に声を掛けた。
「君、一人なのか?」
「いいえ」と少女は屈託の無い笑顔を浮かべて言った。周りに少女の連れ人らしき人物は見当たらなかった。少女もほどなくしてそのことに気づき、「でも、はぐれてしまったみたい」とはにかんだ。
「もう日は沈んでしまったし、ここは危険だ」
夜の露店街は治外法権の一画であり、子供がたった一人で出歩けば良からぬ事件に巻き込まれる可能性が大きい。
「うん、知ってるわ」
目の前の男が気を揉んでいるのを知ってなのか知らないでなのか、少女はやはり笑顔で答えた。
その刹那、背後に嫌な気配を感じ、デュークは身を翻した。刃物が空を切る音を聞き、間一髪のところで躱せたのだと分かった。
デュークに襲い掛かった人物は上衣で頭を隠していた。だが、布の間から、碧く敵意を燃やす瞳、そして、少女とよく似た、白く透き通る髪が覗いている。
「姫様に何の御用でしょうか。返答によってはここで斬り殺します」
短剣を構えた青年は淡々と言い切る。彼は少女の同伴者のようだ。城下町の露店街、その細い路地裏にひとり佇む男の姿は、とても異質に見えただろう。少女を狙っていたと見なされているようだった。
「突然呼び止めてしまい申し訳ない。私はデューク・アルトマン。君たちに危害を加えるつもりは全くない。少しだけでいい、私の話を聞いてはくれないだろうか」
「そんな都合の良い口上には騙されません。覚悟なさい」
デュークは青年を宥めようと語りかけるも、青年は既にデュークを敵だと見做して飛びかかろうとしていた。こちらは武器の類は何も持っていない。デュークが回避の体勢を取ろうとしたときだった。
「待って、マル」
まるで飼い主が指示を聞かない犬を戒めるように。少女の清澄な声が空気を切り裂き、青年はぴたりと動きを止めた。
「この人悪い人じゃなさそう。見た目もきれいだし、喋り方も丁寧よ」
彼は獲物を眼前にしてお預けを食らった犬のような目で、少女を見る。
「しかし、それは姫様のただの直感でしょう? この世には善人の顔をした悪人がたくさんいるのですよ」
「でも、それもマルの思い込みでしょう? おじさん、こんな時間にこんなところに一人でいて、きっと何かあって困ってるんだよ。ね、そうでしょう? 三人で一緒にお店に帰ろう?」
「はあ? ちょ、ちょっと……何を言ってるんですか!」
狼狽える従者らしき青年を放置して、少女は恭しく一礼する。
「マルがごめんね。私は、アイリス・ディグニハイト」
琥珀色の瞳を輝かせて、アイリスは笑った。
まるで冬に咲いた向日葵のような少女だと思った。
「おじさん。ここだよ、私たちの家」
アイリスに連れられてやってきたのは、二階建ての細長い建物だった。外見こそ質素な造りだが、所有者は普通の平民でないことは確かだった。
アイリスが扉を押すと、鈴の音が鳴った。デュークの背後からマルが「ただいま帰りましたー」と呼び掛けると、奥から金髪の女性が顔を出した。彼女は「おかえりなさい」と言いかけたが、デュークの姿を認めるなり、目を見張った。
「オリガさん、急にすみません。説明はこの後させてください。とりあえずご飯の準備をしますね」
庶民的だが充実した手料理が並べられた円卓に、デュークを合わせて五人の男女が集まっていた。アイリスとその従者のマル。マルにオリガさんと呼ばれていた、長い金髪をひとつにまとめた女性。その隣には、もうひとり若く大柄な女性が座っている。
その全員が、デュークが口を開くのを待っていた。どことなく緊張感が漂っているのを感じながら、デュークは話し始める。
「私はデューク・アルトマン。ルスグート領主の一族の者ですが、縁あって王家の使用人として働いていました。この頃、敵対勢力に嵌められて王宮を追放され、行き場が無くなったところを、そちらのお嬢さんとお付きの方に出会いました。……」
デュークは自らの出自や王宮を追われた理由、これから自らがしようとしていることを包み隠さず話した。
リェス・ドゥガー村の住民たちは全員、王宮軍によって捕縛の対象とされていた。村民を匿っていることが判明した際にも厳しい処罰が下される。その危険を顧みずに村民であるアイリスとマルを匿っているということは、国の行いを批判的に捉えていることの意思表示のひとつであろう。
デュークはまず、仲間を増やすことにした。賛同してくれる人々が少しでも増えるのなら、これほど心強いことはないと考えた。ましてや、その仲間たちがリェス・ドゥガー村の村民たちであるならば、どれほどの追い風になるだろう。
デュークの話が一通り終わっても、一同の沈黙は続いたままだった。マルの表情は険しかった。アイリスはどこか大人たちの顔色を伺っているようにも見えた。国と王族を相手取って戦うなど、やはり荒唐無稽な発想だと思われただろうか。
「ねえオリガ、まだお部屋余ってたよね」硬直した場の雰囲気を破ったのは、オリガの隣に座る大柄な女性だった。
オリガは彼女の朗らかな言葉を聞き、眉をひそめる。
「あのねえニナ。うちは隠れ家じゃないし、街のお宿でもないんよ」
「その割には、もうちょっと人手が欲しいなあ、って言ってたじゃない。最近は忙しくなってきたことだし」
「確かに言ったけども……」
オリガは言葉の後ろ側を濁しながら、目を閉じて腕を組む。彼女は揺れているようだった。デュークはオリガを真摯に見つめて言う。
「私にできることがあれば何でもお申し付けください。ご迷惑だけはかからないように努めます」
「ほら、こうおっしゃってるし。アイリスちゃんとマルくんはどうかな?」
「さんせい!」食い気味に手を上げるアイリス。
「皆さんがいいのなら、僕は構いませんよ」小さく息をつき、静かに言うマル。
むむ、と唸っていたオリガも、三人の声を聞くと、目を開き小さく頷く。そして、デュークの方へと手を差し出した。
「……オリガ・テレシコワ。横のでかいのはニナ。ここは仕立屋『スピカ』。貴族だろうと、明日からしっかり働いてもらうから。よろしく」
デュークも頷き、オリガと固く握手を交わした。
仕立屋『スピカ』。その屋号は耳にしたことがある。派手すぎない装飾とその仕事の丁寧さから若い貴族の女たちに好まれており、近頃は平服として流行しているようだった。実店舗は持たず、卸すのも代理の商人で、職人の素性は誰も知らないと聞いていた。オリガとニナが二人三脚で立ち上げた生業で、服の意匠の設計は主にオリガが担当し、ニナは作業助手を務めている。
アイリスとマルは五年前の侵攻から逃れた折、まだ駆け出しの職人だったオリガとニナに助けられる。それからは工房での作業を手伝いながら、人目を憚る生活をしていた。デュークに声を掛けられた時は近くの露店に買い物に出ていたのだが、アイリスが身を隠すためのローブをうっかり忘れていたのだという。
デュークとオリガが握手を交わした後、一同は和やかに食事を摂った。彼女たちは皆ばらばらな背景を持っているに違いなかったが、元からひとつの家族であるように見えた。
片付けまで終えると夜もかなり深まっていた。オリガとニナは製作をすると言って別室に移り、居間の円卓にはデューク、アイリス、マルの三人が残っていた。
「デュークさんは村のことをどれくらいご存知ですか?」
マルの問いかけに、少しは、とデュークは答える。
「じゃあ、私の家のこと知ってる?」
「君はアイリス・ディグニハイト、と言ったな。聞いたことはないし、どの文献にも記述は無かった」
アイリスはきょとんとした顔をした。マルは納得したような顔をして頷く。
「集落には有力な三つの一族があり、分担して村を治めていたことは認識している」
「確かにそうです。しかし村には、御三家に囲われてその存在を隠匿されている、もうひとつの一族がありました。それがディグニハイト家」
マルは自分がつけているという日記を取り出し、余白の部分にペンで絵を描いた。三つの大きな白い丸。それらに囲まれた中央に、小さく黒い丸を描く。
「昔からの伝承に基づいて村を守るために作られた神官の血筋なのです。魔術師の一族と言った方が伝わりやすいでしょうか」
「神官?」
デュークは思わず聞き返す。部下たちと調べていたときもそういった話は出てこなかったはずだ。
「昔、村の人間たちはとある魔物と敵対していました。人々は魔物の力に圧倒され、戦いの中で大勢の犠牲者を出してしまった」
マルはさっき書いた四つの丸から少し離れたところに、ぐちゃぐちゃとした線を描いた。頭に角のようなものが生やされる。魔物を描いたつもりなのだろう。
「人々がどうすべきか頭を悩ませていた時、はぐれ者だったひとりの村人が立ち上がりました。彼は争いではなく魔物と心を通わせることで、結果的に魔物を封じ込めることに成功しました。その人が、ディグニハイトの初代とされています」
マルは小さな黒い丸を指し示す。
「それから数百年もの間、ディグニハイトの当主が魔物を鎮め、村に平和をもたらした先祖を讃える儀式を執り行ってきました。彼らは人ならざる生き物と濃密な接触を図らなければならないため、村を統治する御三家が定めた厳格な規律のもとに生活を送らなければなりません」
「外に出ちゃダメだし、お友達もいないし、ずっとお勉強。おじさんだったら二日で飽きちゃうよ」
「王宮も教会も関知していない、村独自の信仰があったということだな」
「そういうことです。村の外には決して情報を漏らさないようにしていました」
マルはアイリスの方を見た。
「そしてここにいらっしゃる姫様は、数十年に一度とも言われる天性の才能をお持ちの長女様です。まだ十歳であられますが、その能力を存分に発揮されていらっしゃいます。魔法書を独学で一通り読み、その実践も行えるほどです」
マルが語り終えると、アイリスは得意げに胸を張ってみせる。
「一方、姫様がおっしゃる『おにいさま』は少し歳が離れた長男様のことです。残念なことに、神官としての素質をお持ちではなかった。御三家のうちのひとつ、アトリー家が特別な処置を施しているという話もありましたが、僕はその件についてはあまり知らされていません」
「素質がない、というのはどういうことだろうか」
「簡単に言えば、その血筋に生まれたにも関わらず、能力を持たなかったということです。偉大な魔術師を多く輩出してきた家系から、魔術が全く使えない人間が生まれた、と考えてください。それが村にとっていかに重大な問題であるか、部外者のあなたでも簡単に想像できますよね」
「マルはおにいさまと喋ったことがないからそういうことが言えるの。おにいさまが本気を出せば、お城の人だって誰も勝てないんだから」
「はいはい、そうですね。せめて村がまだ健在だった時に、その本気とやらを出していただきたかったものです」
マルが説明をしている間はほとんど静かだったアイリスが、噛みつくように口を挟んだ。マルは半分呆れたような声でアイリスに応じる。「おにいさま」の村での扱いが少し心配になってくる。
「魔物を鎮める儀式は十年に一回行われています。村が滅んだ日の一週間後には、旦那様と長男様で儀式を行うはずでした。村の警備は儀式のために強化していましたが、どういうわけか王宮軍に容易く突破されてしまった。僕は緊急時の取り決めの通り、姫様と旦那様、奥様を連れて村を脱出しようとしましたが、旦那様と奥様は、その道中で……僕は姫様と共に王宮軍から追われていたところを、オリガさんとニナさんに助けられて今に至ります」
デュークはマルが淹れたお茶をひと口飲む。
「五年前の事件の首謀者はおそらく、アルフィリア王子の義弟、ロベルトという人物だ。私は彼の行為を間近で見ていながら、止められなかった。暴力に加担したも同然だ」
「……無理もないでしょう。城下町にいれば話はよく聞こえてきます。今や王よりも影響力を持っている人だとか」
「彼の目的はまだ掴めない。しかし、君たちの故郷が王族の権力抗争に巻き込まれたことは間違いない」
途端にマルの表情が曇り、視線を落とした。その目元には悔しさの色が滲む。
「私は大きすぎる権力を敵に回した。君たちはまだ若い。無理に協力してくれとは言えない。君たちがどう考えているか、聞かせてくれないか」
「……快くは思っていません。僕らから見ればあなた方は皆等しく、悪人です」
そう言うと、マルは顔を上げ、深く息を吸う。
「ですが、あなたと組むことで僕らの未来が変わるのであれば、僕はあなたの計画に乗ります。何の罪もない人々の生活を……皆の居場所を奪っていったあいつらが、今でも許せないんです」
デュークを真正面から見据えるマルの瞳は、先ほど道端で見たものと同じだった。決意に満ちた、強い感情を宿した瞳だ。
「希望はとっくの昔に捨てて、姫様を守るためだけにひっそりと生きてきました。ですが、あなたの話を聞いてわかりました。抗うべき時が来たのだと」
デュークもマルの眼差しを受け止め、万感の思いを込めて「ありがとう」と呟いた。
「おにいさまに会いたい。きっとどこかにいるわ」
ふたりのやり取りを見ながら、アイリスはぽつりと言った。まだ幼いのに家族と引き離されて心細いだろうとデュークは思う。彼女のような境遇に置かれた、またはそれ以上に厳しい環境下にある子供たちのことを思うと、やるせなさで胸が苦しくなる。
「デュークさんはこれからどうするんですか」
「まずは知らなくてはならないな。街の様子や、君たちのことを。だが、悠長なことを言っていられるほど状況は良くはない。協力者を集めたいところだ」
「それなら御三家の方々を捜して協力を仰ぐのが近道だと思います。力もあり、経験も豊富ですから。僕にもできることはさせてください」
「私にも何かできる?」
「ああ。よかったら、君のお兄さんの話を聞かせてほしい」
「話していいの?」とアイリスは目を輝かせ、それから村にまつわる様々な話を聞かせてくれた。マルは彼女の兄のことが気に入らないらしく、悪態をついてばかりだった。しかし、楽しそうに語るアイリスを見つめる瞳はどこか嬉しそうであった。
彼らとはうまくやっていけそうだ、とデュークは直感する。それと同時に、私はもう戻れないところまで来てしまった、と強く実感した。
必ず、ロベルトの悪事を白日の元に晒す。寸分の揺らぎもない決意を新たに、デュークはマルとアイリスを見つめるのだった。