pictSQUAREにて【2022/6/4(土)13時~翌6/5(日)12時】開催
男と男の巨大感情|性的な関わりのない男達オンリー
【A to Z】発行 「lost at sea」収録
「無題 Ⅰ」からお読みください。
(俺はどこに行けばいいのだろう)
ふと気がつくと、俺はひとりきりだった。
ひとりきりとは言ってもここは人が多く集まる市場で、たくさんの人が買い物をする声、世間話をする声が耳に届く。
辺りをぐるぐると見渡してみる。そこそこの長身で、銀色の頭。酷薄そうなひとつの目に眼帯。庶民の生活の場に似合わない、かっちりとした服装。群衆の中、飽きるほど見ているその姿はどこにもない。たった今さっきまで一緒にいたはずなのに。
「あいつ、どこに行ったんだ……?」
答える気配も声もなく、俺の呟きはすぐに騒々しさの中に埋もれてしまった。
俺はやれやれと大きなため息をつく。まあ、俺は悪くないし。俺がせかせかとよく動き回るせいではぐれたのでは、決してない。そう、あくまでも、あいつが俺を見失ったのが悪いのである。
物売りと客でひしめく市場を抜けると、辺りは急に静まり返ってしまった。代わりに聞こえてくるのは、慎ましい生活の営みの音、海風に揺られる木々の音。鳥が笛を吹くように鳴いている。あの鳥の名前は何だっただろうか、自分から尋ねたのにもう忘れてしまった。空を見上げて鳥の軌道を目で追いながら「何だったっけなー、あいつ」と言ってみる。当然、返事は返ってこない。
見知らぬ土地でひとりきりという状況は寂しくもあるが、ちょっぴり心が浮き立っている。
質素な作りの民家が立ち並ぶ通りを少し外れると、住宅とはまた違う、荘厳な石造りの建物が見えた。あれは教会か修道院だ、と直感した。
近寄ってみると、その入口には黒い服を着た人々が集まっている。俺はただならぬ雰囲気を感じて、咄嗟に近くの茂みに隠れてしまう。
人々は誰も彼も、黒い服に身を纏っていた。小さな子供もいれば、老人もいる。目を凝らして数えると、十数人。耳を澄ましても、ほとんど何も聞こえてこない。何が行われているのか、俺にはわからなかった。
やがて、教会の中から、数人がひとつの大きな物体を抱えて現れる。黒ずくめの集団はそれをいつくしむように取り囲み、ゆっくりと歩き始めた。彼らが向かう方角を見やると、小さな庭のような草原に、石の群れが立っていた。
誰かが死んだのだ、そう思った。
「牛飼いの家の青年でした。あなたと同じか、わずかに若いくらいでしょう」中老の司祭は、静かに語った。
弔いの儀が終わり、黒服の集団が帰路についたのを見計らって、俺は教会の中へと足を踏み入れた。自分はよそ者で、同行人とはぐれてしまったことを伝えると、司祭は親切に接してくれた。
ほんの少し道を尋ねようと思っていた。それだけだったはずが、俺たちはたくさんの話をした。俺がこの教会についてひとつ尋ねると、その倍の熱量で話を聞かせてくれるものだから、すっかり聞き入ってしまう。俺は教会で奏でられる音楽に興味があって、この町だとどのくらいの規模で歌うのかだとか、よく歌われている曲についてだとか、司祭を質問攻めにした。やがて話は、先ほどまで行われていた葬送の儀礼のことへと移る。初めて目にしたことを打ち明けると、司祭は驚いた顔を見せたが、それ以上は深く訊かれなかった。
今しがた知り合った人にこんな話をするのもなあ、と躊躇する気持ちもあった。だけど、このときを逃すともう二度と誰にも、俺はこの思いを打ち明けられないような気がした。
俺はひと呼吸置いて、切り出す。「ちょっと個人的なことだけど、話してもいいか?」
「どうぞ」
「今いる場所を出て、外の世界を見に行きたくて」
「ふむ」
「だけど、それって別れがつきものだろ。そう思うとなかなか言い出せなくて」
俺の話を受けて、司祭はしばしの間、言葉を探していた。聖堂の中、広い空間をじっと見つめ、一言一言噛み締めながら話し始める。
「こんな一節を思い出しました。……心にかなう道を、目に映るところに従って行け。ある伝道者の、若者を鼓舞する言葉です。神は私たちひとりひとりに務めをお与えになります。あなたの中に望みが生まれたのであれば、あなたが思う場所へと、行く時が来たのでしょう」
「……そうなのかもしれない」俺はこくりと頷く。「でも、別れることはつらいことだ」
「別れは別れでも、たとえば、死別は絶対的に覆せない断絶のように見えますね。ですが死もまた、我々にとっては一時的な別離にすぎないのです」
死んでしまえば、もう会うことはできないのではないか。それに、死は悲しいものではないのか。故郷ではそう教えられて育ったので、俺は不思議に思い尋ねた。「また会えるって、どうして言い切れるんだ?」
司祭は小さく頷いて、俺の問いを解こうとする。
「別れはつらく痛ましいものですが、家族が青年のことを思い出すたび、彼は家族の中で生き続けます。やがて家族も生をまっとうすれば、みな神のもとで再び会うことができます。そしてともに、復活の日を待つ……そう考えると、死は祝福されるべきもので、不幸な出来事ではないのですよ」
「……要は捉え方によるってことかあ」
「あとはあなたが何を選び取るかだと思いますよ」司祭は微笑んだ。経典独自の価値観がちりばめられていて、理解するには時間がかかりそうだな、と思った。だけど、答えはあくまでも俺が出すもので、それを尊重してくれた司祭に感謝した。司祭は続けてこう言ったが、これにはなんとなく共感を覚えた。
「祈りとは、いつか来るその時まで大切な人とつながり続けるための営みでもある。そう思いながら、私はここで祈っています」
祈り。人。つながり続ける。
まるで氷がじわじわと溶けるのを見ているような、そんな落ち着いた心地で、俺はその言葉を反芻していた。
(彼はどうして、俺に優しくするのだろう)
ふと気がつくと、俺の視界を天井が占めていた。
それはとてもよく見慣れた天井で、俺は毎朝、こいつを見上げながら目が覚めるまで寝転がっていたり、ぼんやりと考え込んでいたりする。俺が住む場所であり、第二の故郷とも言える場所。今この部屋は、焼けつくような橙色に染まっている。カーテンを一枚隔てながらもこの眩しさである。外に出たならば、きっと今の頼りない俺など、すぐに焼き尽くされてしまうだろうと思う。
ひどく疲れていた。腕も脚も、何者かに押さえつけられているように重く、動かす気力すら湧かない。からからになった喉を潤そうと唾を飲み込むと、血の味がした。(まただ)と思ったとき、嘔気がじわじわとやってくる。にじり寄ってくるそれから意識を逸らしたくてたまらなくなったとき、誰かが俺の名前を呼ぶ声、ぱたんと本が畳まれる音がした。
目を声のした方に向けると、そこには彼がいた。彼はベッドの傍らに椅子を置いて、座っていた。彼の顔も強い光に照らされて眩しかった。だけど、その表情は少し安堵しているように見えた。
「……俺、どれくらい寝てた?」
「それほど長くはない。だが、もうすぐ日が暮れる」
「そっかあ。あいつら、さすがにびっくりしてただろ」
「心配している。立てるようになったら、顔を見せに行けよ」
こうやって言葉を交わしていても、口の中に濃く残る血の味が不快に感じて仕方がなかった。彼はグラス一杯分の飲み水を用意してくれていた。上半身を少しだけ起こして、「うん」と言いながら俺はその水を受け取った。
「気を失う直前のことは覚えているか」と尋ねられ、少し考えて俺は首を振った。はっきりとは覚えていない。だけど、俺はもう何度も、同じようなことをやっていた。
一族に伝わる歌唱と詠唱魔術の融合体。それを行使した後、俺はまったく使い物にならなくなる。鼻血や咳が出る、そこまではまだ笑って耐えられたのだが、徐々に体が訴える苦痛は重くなっている自覚がある。ほぼ毎回、血を吐いた。今日のように気絶して周りを驚かせて迷惑をかけることも、少なくなかった。
大きな原因は、俺の体が能力を扱うのに適していないことである。だけど、負担を和らげる方法はわからない。
それでも、俺は歌い続けなくてはならなかった。俺は歌であり、歌は俺の一部だった。
「もう、こんなことはやめろ」
消え入りそうな声で、彼は言う。
「今日のところは運が良かっただけだ。運良く、目を覚まして戻ってくることができただけだ。その次が絶対にあるとは限らない」
その通りだ。そして、その不安がまったくないと言えば嘘になる。だけど、「無理だな」と俺は答える。
「俺にとって、生きるってのはこういうことだから」
俺は明るく振る舞う。普段通りの笑顔で、話し方で。一瞬の隙も見せないようにする。
「実際役に立ったろ。被害も最小に収めた。こんなんでも、扱い方はなんとなくわかってきたぜ」
自らの身を滅ぼす結果になろうとも、やめるという選択肢は俺にはない。俺の生活から歌がなくなったときのことを考える方が、よっぽど恐ろしかった。
「……ならば、俺からも言わせてもらう」少しの沈黙の後、彼は口を開く。どんな小言が飛んでくるかと身構えていると、彼は「お前がそれを貫くのなら、俺もそうする」とだけ言った。俺はその意図が読み取れなくて、彼の目をただ見つめる。
「どういうことだよ」俺が問いかけると、彼も俺の目をじっと見た。
「俺にとって生きることは、お前を守ることだ。そのためなら、何だってする」当たり前のことのように。それが生まれながらの自らの使命であると信じてやまない、そんな面持ちで、彼は言う。
俺の負担を軽くする方法。魔術の専門家でもないくせに、彼は彼自身の仕事で多忙の合間にそれを探っている。だけどその努力も虚しく、いまだに何の成果も得られていないこと。もはや人間的な生活に支障をきたす一歩手前だと、仲間たちに指摘されていることを思い出す。
俺なんかのためにそこまでしなくたっていいのに。俺はずっと、そう思っている。
だけど、彼がくれるものを、ただ受け取ることしか俺にはできない。彼と同じものを返すことは、俺にはできない。
高圧的な物言いとは裏腹に、その後に髪の上に降りてきた手の感触は、あまりに優しい。そのことに気づいたとき、無性に泣きたくなった。そして、それを悟られるのをひどく恐れた。(体が弱っているからそう思うだけだ)と言い聞かせた。こみ上げてくるものを飲み下して、「ガキ扱いすんなって」と俺は笑った。
彼も薄く笑う。苦しさを隠しきれない顔で、笑う。
(本当に俺が嫌いなのは、誰だったのだろう)
ふと気がつくと、俺の右手は赤く濡れていた。
節々が切れたり、腫れて熱を持ったり、べっとりと血がこびりついていたり。散々な見た目だ。だけど、視線を下に落とすと、居間の壁にもたれかかっている、もっと散々な見た目をした男がいた。
「気は済んだか」
こういうときに、彼が決まって言う台詞だった。俺は何も答えない。気が済んでいるのかどうかも定かではないし、そもそもどうしてこんなことになったのか、事の始まりから思い出さなくてはならない。俺のことよりも自分の心配をすればいいのに、とさえ思う。鼻の下には流血の跡があり、唇の端も切れて腫れている。早く手当てをしないと、治りが遅くなる。
「……早く拭けよ。顔」
「そうしたいがな。色々こなせるほどまだ頭が回っていない」彼はそう言いながら、肩をすくめた。
俺は彼の目の前へと腰を下ろした。「俺ら、なんの話してたんだっけ」
「さて、何だったか」
「すごくどうでもいいことだったのはわかる」
「そうだな」
「いーよ。もう何でもいい。お前といると疲れる」
「まったくだ」彼はそう言って、目を閉じる。俺たちの間にさっきまであったはずの強い感情、それらが渦を巻いてぶつかる音。跡形もなく去っていってしまった。風が止み、波が静まるように。そうして俺たちは、ただお互いを痛めつけるだけの不毛な喧嘩に、一区切りをつける。
彼のことが、ずっと嫌いだった。
最初はたしかに理由があったはずなのに、今ではもうよくわからなくなってしまった。それくらい、俺と彼の間にあった問題は複雑に絡み合い、手に負えないほどに大きかった。数え始めればきりがない。故郷でのいざこざを引きずったまま大人になってしまったこと。互いに衝突しやすい性格で、怒りの沸点が低いこと。言葉が足りないこと。
だけど、それでもずっと一緒にいた。この二年ほどの俺の日常は、彼なくしては何も語れない。どれだけ憎かろうと、それは決して無視できない事実である。
空はすっかり蒼く黒くその色を変え、部屋の中をゆるやかに夜へと染めていく。もうすぐ、みんなが帰ってくる。その前に。
俺は立ち上がって、戸棚や箱を手当たり次第に探った。だけど、俺はそれが家のどこにしまってあるのか知らないことに気づいた。彼はふらふらと何かを探している俺をしばらくの間黙って見ていたが、俺が四箇所目でまだ正解の場所に辿り着けないのを見て、「お前のすぐ右横にある木箱」とだけ口にした。中には簡単な応急処置ができる道具が入っていた。何をどう使うかわからなかったので、使えそうなものたちを両手に掴んで、彼のもとへと戻る。傷を覆うための布や、包帯、止血作用がある塗り薬。俺がかつてそうしてもらったときのことを思い出して、水やタオルも用意した。
彼は今から自分が何をされるのか知っているようで、愉快そうに笑っている。俺はなんだかむっとしたので、湿らせたタオルを右手に掲げて、「動いたらぶち殺す」と脅迫する。
「お前も随分と大人になったよな」
「気のせいだろ」俺はわざと素っ気なく言う。真っ白だった布地が赤色にくすんでいくにつれて、彼の顔はだんだんとましに見え始める。拳を強く打ち付けた跡は拭いただけでは治らないので、これは後で冷やさなくてはなあ、と思う。
「俺の目にはそう見える。だが、見境がないところはすぐには治らんな」
「……悪かったよ」
「いい。十分伝わった」
俺が血の汚れを拭ったり塗り薬と格闘している間中ずっと、彼はなぜか楽しそうだった。目に見えて浮かれているわけではなく、纏う雰囲気がふっと明るくなるのだ。それは、厚い雲に隠れていた月が現れる瞬間に似ていた。年中しかめっ面をしている男だと思い込んでいたけれど、こんなに柔らかく笑える人だとは知らなかった。いや、もしかすると、見て見ぬふりをしていただけかもしれない。
彼と向き合っていると時々、その瞳の奥で何を思っているか、理解できてしまう瞬間がある。なぜか他人を自分の内側に立ち入らせようとしないところ。その実、ひとりではまっすぐに立てないところ。不器用で、言葉が足りないところ。
彼の深い紅色の瞳の中に、俺の姿が映っているのを見る。にわかに息苦しくなり、目を覆いたいような気持ちになる。
嫌いな理由をひとつ思い出したけれど、今は深く考えないことにした。
(俺はどうやって、この人に別れを告げればいいのだろう)
心地の良い風が体を撫でていく感触で、俺は目を覚ます。
まだしゃんとしない意識の中で目を開くと、彼が窓を開けているところが見えた。「おはよう」と言って彼がこちらに歩いてくる。彼の身支度はもうほとんど終わっていて、(そういえば、今日で帰るんだった)とふわふわした意識の中で思う。
俺の後ろ髪があんまり跳ねていたので、彼が整えてくれた。昨日まで騒がしい客たちでいっぱいだった宿屋の食堂が今朝は貸切状態で、それでもくだらないひそひそ話が楽しかった。最後にもう一度海岸に行きたいという意見が一致して、朝日が照らす砂浜をゆっくり歩いた。こんな風に、海辺の町での最後の朝を、俺たちは穏やかに過ごした。
ここから出て、新しい場所に行きたいということ。二日前に俺が打ち明けた話には、もう触れることはなかった。みんなでスープを作った。それぞれに課せられた家事をこなし、俺は時々手を抜いて叱られた。天気があまりにも良かったので、予定を全部無しにして昼寝をした。俺たちの別れはもうすぐそこまで迫っていて、だけど、俺たちはそいつから目を逸らし続けるように日常を送っていた。
この日もいつものように、俺は洗濯物を任されていた。すっかり暖かくなった春の陽気に、草むらの間で飛び回る小さな蝶のように心を身軽にされてしまった俺は、鼻歌を歌っている。自分より一回り大きいシーツを広げながら、タオルや敷物を干しながら、鼻歌だけでは飽き足らずに、歌詞もつけて小声で歌う。
——何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。生まれる時、死ぬ時、植える時、植えたものを抜く時、……。
それらはあの日、司祭に教えてもらった経典の言葉だった。俺が歌う声に気づいたらしい彼が「またどこかで覚えてきたのか」と声をかけてくるまで、俺は音と言葉を追うことに夢中になっていた。
俺が「まーな」と答えると、彼はすかさず尋ねてきた。
「それはどういう意味が…」
彼が言い終わらないうちに、俺は手に持っていた洗濯物をその顔にばさりと投げかける。
「教えてやらねーよ。自分で調べろ」
不服そうな顔が洗いたてのシャツの間から覗いたとき、そう言って俺は、俺ができる限り最高の笑顔を作る。
俺がこんな風に、体のことを心配せずに歌えるようになったのは、彼のおかげだった。「お前を守る」という意志を、彼は彼自身の行動で守り抜いた。尊敬に値すると思うし、感謝している。本当は「ありがとう」と言葉にして、「さよなら」と告げること。彼を含め、関わってきたすべての人に対して、俺はそうあるべきだった。
だけど、俺が彼らに向けてそうしている場面を、まったく想像できないのだ。どうしてだろうか。あまりにも綺麗すぎるだろと、否定したくなった。
記憶の中に決定的に残る別れでなくては。それがきっとふさわしいと思う。やがて他人に忘れ去られる、一方的に祈りを捧げることでしか再び相見えることができない人生ならば、俺との別れが一生残る傷になればいい。俺の不在が、俺という存在がここにいた証明になるように。
我ながら随分と捻くれた考えだと思った。だけど、小さい頃から俺は捻くれた人間だった。そういった面を周りには決して見せたくなかっただけで。他人に弱みなんて握られたくなかったし、彼にさえも寄りかからなかった。俺はずっと、本当の俺を隠して笑っていた。
——伝道者は言う。空の空、空の空、いっさいは空である。俺は心の中で唱える。
こうやって三人分の洗濯物を乾かすのも最後だな、と、頭の片隅で思った。
(俺は何を得て、何を失ったのだろう)
薄明の森の中を歩いている。
勾配がついた上り坂に差し掛かり、この道は高台に続いているのだと予想ができた。密生する木々の間を縫って歩いていると急に空が開けた。眼前に飛び込んでくるのは空を染める白い光と、果てしなく広がる草の海。その先には城壁のように山脈が連なっている。不思議な場所だった。手を伸ばせば、今にも空に手が届きそうな気がした。
そうして初めて、俺は本当にひとりきりになったのだと気がついた。
わからなさを、世界と断絶されていた時間が長かったせいにしていた。だけど、そんな言い訳をいつまでもしているわけにはいかない。俺の中に芽生えたいくつもの疑問をひとつひとつ取り出して考えようと決めたときから、もう既に、向かうべき道は決定されていたのかもしれない。
彼や俺の周りの人々がくれるまごころに気づいていた。その一方で俺は、人と深く交わることを強く恐れていた。彼の瞳を見ていると否応無しに見えてくる自分自身の姿を見つめることが、つらかった。その重圧に耐えかねてすべてを手放した後には、あまりにも広い世界と、そこにひとり解き放たれた自分だけがあった。
俺は自分の中の相反する感情を知る。こんな俺でも、誰かとつながっていることを幸福だと感じていた。自由がずっと欲しかった。その引き換えに失ったものはこれなのだと、今更おもった。今更おもったって、すべてがもう遅いのに!
だけどそれも、いや、それこそがきっと、生きるということなのだ。さよならだってまた、人生のうちなのだ。
——抱擁の時、抱擁を遠ざける時、求める時、失う時、……。
彼らがまだ目を覚ます前、感づかれないように家を出てひたすら遠くに向かって歩いている最中、俺は歌っていた。歌いながら、少し泣いた。溢れ出るものを拭いながら、彼がまた涙を流すのならこんな孤独の内側ではなく、せめて誰かのそばであってほしいと祈った。
その瞬間、彼との記憶が頭の中を閃光のように駆け巡る。ありあまる優しさを受け取った日のこと。ぶつかり合った日のこと。つい昨日のこと。
ついに、声を抑えきれずに泣いた。草が揺れる音、鳥が羽ばたく音に交じって、俺の嗚咽が悲しいくらいに響いた。ぐしゃぐしゃに濡れたひどい顔で、涙は止まってくれなくて、それでも俺は笑っていた。泣きながら笑って、立ち止まることなく歩き続けた。不義理とも取れる俺の行動を彼が許さなかったとしても、他の誰に後ろ指を指されても、俺だけは俺の選択を肯定するために。さよならは、まだ言わない。これ以上ないくらいに激しく生きて、生き抜いて、朽ちる瞬間。それが俺と、俺が置いてきたすべてとの本当の別れの時だ。
とりあえずは、誰も追いつけないくらいに、遠くへゆく。
それから何を見に行こう。
できれば今は、海がないところだと嬉しい。
本文中引用箇所/出典
『コヘレトの言葉(新共同訳)』 日本聖書協会 一九八七年
「俺」と「彼」の話です。要はツヴァイクとゼロの末路の話なのですが、固有名詞を出さないという縛りで書きました。
「彼」の話は「無題 Ⅰ」で読むことができます。
ゼロさんがまたひとつ、大人になる過程の話かもしれません。
言いたいことは無限にありますが、もう一言だけ。
手当てのシーン、大好きだ……