瞼裏の光

2025年7月20日発行





 夏の盛りだ。
 この国の冬と夏の気候の差異はどうかしている。それでも住処としている中山間部の暑さよりは幾分か和らいで感じるのは、辺りに広がる一面の湖と木陰のおかげだろうか。時折ぬるい風が吹き、汗が滲む肌に一時の冷たさを張りつかせる。
 ついに退屈を持て余したテラは俺がこの場を離れた一刻のうちに、青天井を見上げて寝転んでいた。足先を湖に浸したまま、微動だにせず。
「未だ待ち人来ず、か」
 汲んできた飲み水を差し出しながら俺は問いかけた。テラは肩をすくめる。

 この日からこの日は何も予定を入れないこと。テラからそう告げられたのは一月前のことで、彼のその発言が無ければ何も考えずに仕事の予定で埋めてしまっていただろう。前日になって俺はようやくテラの目的を聞くことができた。
「休日を過ごすのにいい場所があって」と連れて来られたのがこの湖畔である。テラは自身の仕事でこの近辺に立ち寄ったことがあり、再び足を運ぶ機会を作りたかったのだという。
 湖畔には一軒の家屋があり、普段は一棟貸しの宿として使われている。彼は玄関に立ち入るなり「没落貴族が持ってた別荘だよ」と耳打ちしてきた。要は少しだけ曰く付きの物件ということだ。そんなところで安心して夜を明かせるのかと文句は言ったが、今のところ物騒な現象などは起きていない。城下町の喧騒から遠く離れた、人の気もなく静かな場所だ。休日を穏やかに過ごすには、確かに打ってつけの。

 到着した俺たちは早速、夕飯の材料として魚を釣ろうとしていたが、全く釣れなかった。絶好の釣り場であることには間違いないのだが、こちらの気配が伝わってしまっているのか魚が寄り付く様子がない。俺たちは午前中からかなりの時間を待つことに費やしている。だが、そんな時間も悪くはないと思う。
「よく釣れるって聞いたんだけどなあ」
 テラが欠伸混じりに呟いた。
「少し休んだらどうだ」
「……そうしようかな」
 竿を水の中から引き上げて、テラは空を眺めている。俺も横に並び、彼がするように仰向けになった。少しでも同じものを見つめていたかった。彼の目線の先を探ると、一際大きな雲の塊に行き着く。
「あの雲がさ」
「ああ」
「だんだん魚の形に見えてきた」
 時々突拍子もないことを言うから、彼との会話は飽きることがない。
 ぬるい風を浴びながら空を泳ぐ雲を見ている。突き抜けるような青空だ。山々の間からは大きな入道雲が起き上がっている。
 夏の盛りだ。どうしようもなく。



 繰り返し思い起こすことがある。

 村の行事も仕事もなく、久々の何もない日だった。同い年の悪友たちはそれぞれの家の仕事で忙しなく動いていたが、今日の我が家にはゆったりとした時間が流れている。
 そんな休日でも、手を動かしていないと気が済まない性分だ。やるべきことはいくつかあったが、まずは祖父の物置になっている部屋を整理しながら、本の風通しをすることにした。祖父は国内外の珍品には目が無く、蒐集した物たちはこの村の貴重な財産とも言うべき品々だ。
 しかし困ったことに、祖父は整理整頓を全く行わない。がらくた混じりの蒐集品は倉庫や空き部屋に収まっている分にはまだいいが、それらが我が家の生活空間まで侵食してこられては迷惑である。そういう訳でこの片付けは俺が自発的に行っていることだった。祖父は怒るどころかむしろ歓迎しているようで、近年は片付けや掃除をすっかり俺任せにしている節がある。
 膨大な量の書物の一つ一つを開いて、変色がないか、紙食い虫の痕跡がないかを確かめる。真夏の長日だ。日差しが入らないようにカーテンを閉めていても、暑さで頭の奥がぼんやりと形を失っていくような感覚がする。
 そろそろ小休止を挟むべきだ。思い立ったところで、今手にしている本に何かが挟まっていることに気づく。
 取り出して開いてみると、それは古い紙に木炭で描かれた素描だった。
 手慣れた様子で引かれた黒い線は、長髪の若い女性を象っている。
 

 「……これは」
 寝室兼書斎で寛いでいた祖父にその絵を見せると、彼はたちまち目を細めて呟いた。
「お前の母親さ。何十年も前のな」
 この人が。俺は再び素描に目を落とす。
 

 俺は母親の姿を知らない。物心がつくずっと前に亡くなったと聞かされている。その詳細については祖父は俺に聞かせたくないようだった。
 だが、俺は幼いうちに知ってしまう。遠巻きに後ろ指を指す大人達の存在。何度も背中で聞いた言葉。
「あれが村に穢れを持ち込んだ女の子どもだ」
「後継ぎには相応しくない」
 祖父は俺を自らの息子のように扱ってくれたが、大多数の怨嗟の言葉に押された烙印は必然的に、俺を捻ねた子どもにしてしまった。
 思うところが様々あるのだろう。祖父が母親のことに言及する眼差しはいつも暗い。俺も母親の話はしないようにしていた。
 だが、この時の祖父はとても懐かしそうに古い絵を眺めていた。当主としての威厳を含んだ表情がふっと和らぎ、父親としての顔が覗く瞬間を見た。
「以前はうちの班に絵描きが居てな。そこの娘とよく遊ばせていたんだ。その頃の絵だろうな」
 班とは、御三家各家の指揮下にある住民達の集合体のことだ。つまりは母親と親しかった友人が描いたものなのだと理解した。
 美術品には明るくなく、良し悪し等は俺にはわからない。それよりも印象的だったのは、薄く弧を描く口元の微笑と、柔らかくも芯の強さを感じさせる眼差しだった。これはただの素描や習作ではないと直感した。友人であるという描き手と母親の間にあった親密さが作り出した特別な一枚に違いなかった。祖父もきっと同じことを思っているはずだ。

 祖父は、傍らで立ち尽くす俺を見上げて言った。
「俺が思うに、最近のお前はキーラによく似てきた。姿も、顔立ちも。この老いぼれに舐めた口を聞くところもな」
 その台詞こそ嫌味たらしかったが、悪くは思っていないのだろう。その口元には喜びが僅かに滲んでいる。
「描いた人は、今はどこへ?」
 俺は尋ねた。断片的にしか知らない母親の肖像を、この絵の描き手になら聞くことができるのかもしれないと思った。
 だが、祖父は無言で首を横に振った。
 その絵について、祖父と交わした会話はそれきりだった。絵を手にしたまま物思いに耽る祖父を残し、俺は書斎を出た。
 村が燃え去る、百七十二日前の夏のことだ。


 急に強く降り出した雨を避け、湖のほとりの船小屋へと駆け込む。湖の周辺は高い木が生い茂る森だ。遠くで鳴り始めた雷の音を聞き、宿に帰るよりも安全だと判断してのことだ。
 にわか雨に濡らされたテラの様子はどことなく水を嫌がる猫を連想する。つまりは機嫌が悪いということだ。下手に揶揄ったり刺激すると、後の雰囲気に大きく響くことを俺は知っている。
「しばらく止みそうにないな」
 外を見つめながら俺は呟く。テラは無言のままだ。眉間には薄く皺が寄り、唇は一直線に結ばれている。どこか焦点が定まらない様子で、船小屋の開口部から外の景色をぼんやりと眺めていた。
 雨足が強まると同時に雷雲も近づいてきていた。そして今、すぐ近くに落ちたのだろう。弾けるような雷鳴と稲光に反応して、テラの目が一瞬わずかに細められたのを見た。随分と久しぶりに見る仕草だと俺は思う。

 テラが俺のもとにやってきて、少しずつ互いを知り始めた頃だった。
 雨が強く降る夜中、部屋の扉を控えめに叩く音がした。うまく寝付けずに浅い眠りと覚醒を繰り返していた俺は、偶然その音を拾い聞く。扉を開くと、既に寝床に入ったはずのテラが立っていた。
「ごめんなさい。起こしちゃったよね」
「構わない。何かあったのか」
 身体の調子でも悪いのかと心配になり、俺は尋ねた。すると、申し訳なさそうに彼は言う。
「……ちょっとだけ、怖くなっちゃって」
 寝台は一人用だが、横に小柄な少年が一人増えるぐらいならば特に問題はなかった。横になって身体を丸めるテラと向かい合い、雨音の合間でぽつぽつと言葉を交わす。
「屋根の下にいるから大丈夫だ。じきに遠ざかる」
 テラは何も言わずに頷く。不安が拭い切れない様子であったし、雷が苦手なことをやや恥じているようでもあった。だが、それも幼い頃は皆通る道だと俺は知っている。そんな時に、彼の家族ならどうしただろうと考える。
 テラの黒い髪に手を伸ばしてそっと触れた。不安定に揺れ動く彼の輪郭が、元の形に戻ることができれば良いと思った。
 手のぎこちなさには気づかれていただろう。それでも彼は満足そうに瞼を閉じる。たったそれだけで俺までも救われたような気がしたのだから、不思議だった。

 年月を経て大人へと歩みを進めていく彼の根幹には、変わらないものも勿論ある。生来の芯の強さ。その奥にある繊細な部分を隠すのではなく、俺には開いてくれること。それもまた強さなのだ。
「今のは近かったな」
 俺は彼に向かって声をかけた。テラはやはり外を眺めている。その横顔には退屈さと疲れが滲んでいる。「テラ」
 名前を呼ぶ。今の彼はこうして呼びかけてもつれない態度だが、聞こえてはいるはずだ。
「手を貸してくれないか」
「どういうこと?」
 テラは俺の方を向いて目を瞬かせる。
「右手を」と言いながら、俺は手のひらを上にして左手を差し出した。テラは訝しげな顔をしながらも自身の右手を俺の左手の上に重ねる。重ねられた手を捕まえ、そっと握った。雨で冷やされた空気の中で、テラとの接点だけが温もりを持っている。
 テラは俺の行動を不思議そうに見つめていたが、すぐに俺の手を握り返してきた。肌の感触を確かめながらどちらともなく指が絡み合い、強く固く繋ぎ合う。降り注ぐ雷雨に掻き消されないように、俺が隣にいることを確かめられるように。
 出会ったときから俺たちは、言葉を用いて通じ合うことを何よりも重んじてきた。それと同時に、触れ合うことによって生まれるものの力も信じている。
 手を握りながら、雨雲を見上げるテラの横顔を側で見ていた。いつの間にか彼を中心に回り出した日々のことを思い起こす。
 いっそこのまま、雨が止まなくても構わない。


 夕方の雨は幻だったかのように、湖畔には爽やかな夜が訪れた。三日月が地上を煌々と照らし、開けた窓からはさっぱりとした夜風が差し込む。
「魚、食べ損ねちゃったなあ」
 宿に戻って夕食を取った後も、テラは魚釣りがうまくいかなかったことを気にしていた。
「また来よう。その時は食べられるさ」
 彼が思い描いていた計画からは少し違うものになってしまったかもしれないが、俺は満足していた。

 宿の中には蜂蜜酒が準備されていた。テラによればこの建物の持ち主の計らいだというので、せっかくだからとふたりで酌み交わしていた。味はなかなかのもので、おそらく庶民が気軽に飲めるものではない。ここにはいない宿の主とやらに複雑な心情を抱くが、テラが嬉しそうに「気に入ってくれたならよかった」と言うので、気にするのはやめることにした。
 とても静かで、美しい夜だった。酒に当てられて僅かに火照る身体に夜風が心地良い。隣にはテラが座っている。彼が休日を作ってくれなければ得られなかったひと時に、心も身体も癒されているのがよくわかる。
 部屋の中には至る所に絵が飾られていた。そのことに触れると、テラは「それは前の持ち主の趣味だね」と言った。
「見ていたら、母親のことを思い出した」
 ふいに零れた言葉に、テラが表情を引き締めたのがわかった。俺の口からはこれまでに聞くことのなかった単語だっただろうから、彼が驚くのも無理はなかった。
 母親について話すことを無意識に避けていた。彼の前では話す必要もなかった。だが、今日は何故か、話してみてもいいのかもしれないと思ったのだ。俺は母親が描かれた絵を見つけた日のことを一通り話した。テラはじっくりと耳を傾けてくれた後、言葉を慎重に選びながら尋ねてくる。
「どんな人だったのか、聞いてもいい?」
「よく働く人で、気が強かったとは言われていた。全部祖父の受け売りだがな」
「へえ、なんだか想像つくかも」
 母親を説明できる言葉の所在を頭の中で探っていると、あの絵を見つけた日のことがまざまざと思い起こされる。長く真っ直ぐな髪に、平時は気難しい祖父の素直な言葉。
「俺の姿は母親そっくりだとも言われた。想像できるか?」
 何となく冗談のつもりで言ってみたのだが、テラは俺の顔をじっと見つめてきた。その様子があまりにも大真面目だから、こちらは少々気恥ずかしい。
「きっと皆から慕われる素敵な人だったんだ」
 テラはふわりと笑った。
「……素敵な人、か」
 彼の賛辞を反芻しながら、そうであってほしい、と思う。彼女を非難する声を数多く聞いてきたが、それらを真に受けたことはない。母親のことを語る祖父の眼差しの柔らかさ、木炭の線が象る暖かさを思い起こせば、どちらを信じるべきかは明白だった。
「その絵はまだ残ってるの?」
 俺は首を横に振った。テラにも見てほしかったのだが、いくら捜しても村の燃え跡からあの絵は見当たらなかった。片付け下手の祖父に渡したままにしていたことを後悔した。描いたその人を捜し出そうともしたが、なぜか手がかりが少しも掴めず諦めた。今となっては俺の記憶の中にしかない絵である。
 だが、幻ではなく、確かにそこにあった肖像。母とその友人が生きていた証明。俺はこの目で見た。
「残っていないからこそ、強く想ってしまうんだろうな」
「それはさ、ツヴァイクが思い出せば、いつでも会えるってことでもあるよ」
 テラも状況は違えど、生みの親を早くに喪ったのは同じだった。形の似た傷を持つとお互いに知っているからこそ、彼の言葉はいつも優しい。
「それと、昔のことを少しずつ話してくれるようになったよね」
「そうかもしれないな。聞いていて心地のいい話ではないが」
「耳触りがいい話ばかりしてても面白くないよ。それに、僕はあなたのことがもっと知りたい」
「まだ知らないことがあるか?」
「あるよ。だから、これからもたくさん教えてね」
 そう言って、テラは肩をこちらに預けてきた。
 彼の体重を支えながら、俺も彼の方へと寄りかかった。雄弁な彼とは違って口下手な自覚が大いにある。だから、これが今の気持ちだと伝えられたならいいと思う。
 重なる身体の輪郭と温もりを感じながら瞼を閉じる。


 テラに手を引かれ、木漏れ日の下を歩いている。
 穏やかに朝を過ごしていたところ、テラに連れられ散歩に出ることになった。彼はどこかを目指している様子で道を進んでいくが、行き先は教えてもらえていない。どこへ行くのかと尋ねても彼は楽しそうに微笑むだけだった。結局、旅の始まりから終わりまでずっとテラに任せてしまったなと苦笑する。
「ここから目を閉じてくれる?」
 森をもう直ぐ抜けるところで、テラが言った。俺は指示通りに目を閉じる。周囲の景色は視えなくなるが、テラがしっかりと手を握ってくれているから、心配だとは少しも思わない。
 ある程度歩みを進めたところで、閉じた左瞼に強く光が当たるのを感じる。ようやく森を抜けたのだろう。
 テラが立ち止まり「開けていいよ」と言った。ゆっくりと目を開ける。視界に飛び込んできたのは、陽の光を受けて輝く黄色と緑。
 ひまわり畑だ。
 テラに誘われて、一面のひまわりの中を歩いていく。自生していると言うよりは、誰かの手が加えられて丁寧に管理されている印象を受ける。彼に確認すると、よくわかったねと感心された。
「何本かなら持ち帰っていいって言われてるんだ」
 いつの間に持ってきていたのか、テラから鋏を渡されたので、各々一本ずつ摘むことにした。小ぶりで綺麗に咲いているものを選んだ。気付けばテラは二本のひまわりを手にしており、満足げな表情をしている。合わせて三本か、と思った。
「ここが最後の目的地だよ」とテラは言った。一泊の小旅行だったので今日には家に戻る予定だ。王都近辺からもさほど遠くないし、避暑地としてこれ以上の場所はないだろう。
 家に帰っても俺たちは離れるわけではないが、日常へ戻ることに少しの名残惜しさを感じていた。そんな俺の心を見透かすように、テラが語り始める。
「これまで色んなことがあった。それも良いことばかりじゃないし、あなたを信じられなくなりそうなときだってあった」
 彼の言うとおりだ。似た傷を抱えてはいても俺たちは別の生き物であり、すれ違うこともある。今こうして手を繋げていることだって、決して当たり前ではない。
「落ち込んでいる時に偶然、この湖に来たんだ。いくつもの川から流れ着いて今は穏やかな姿を見せている湖が、僕らの過去と重なって見えた。色んなことがあったけど、前よりもずっと僕らは強くなれたよ。今日の日にそんな話ができたらいいなって思ったんだ。それが、この旅の目的」
 側に居られるのが当たり前ではないことを知っているからこそ、俺たちはもがく。痛み続ける。ふたりで長く手を繋いでいるために。
「お前らしい考えだ。連れてきてくれてありがとう」
 テラが俺を思ってこのような時間を作ってくれたことが何よりも嬉しかった。
 しばらくの間、手を繋いだまま、ひまわり畑の中をゆっくりと歩いた。その途中でテラははたと立ち止まって俺の顔を見上げた。
「まあ、さっきのは後付けの理由なんだけど。本当のところ、聞きたい?」
 藪から棒に投げられた問いかけに俺はひどく戸惑った。本当のところは一体何なのかと身構えたが、頷くほかない。
「……どういうことだ?」と恐る恐る尋ねる俺とは裏腹に、テラはさらりと言った。
「あなたを独り占めしたかったんだ。誰の目も届かないような場所でね」
 
 眩しい、と思った。それは真夏の日差しが眼を刺すせいかもしれないし、彼が紡ぐ言葉そのものが放つ光かもしれなかった。まるで目が眩んだかのように呆然とする俺を見て、テラは「驚きすぎだよ」と笑っている。降り注ぐ太陽の光も敵わないほどに輝く瞳が、俺を捉えて離さない。
 きっとこの笑顔に出会うために俺は生まれてきたのだと思い込んでしまう。

「勿論、皆に祝福されるあなたを見るのも好きだよ。だけど見てるばかりじゃあ僕の立場がなくなっちゃうし。毎年準備してくれる皆には悪いけど――、わっ」
 テラが長台詞を言い終わらないうちに、身体が勝手に動いてしまっていた。両腕いっぱいに彼の身体を抱き込んで力強く引き寄せた。首筋に顔を埋めて目を閉じる。微かに花の香りがした。
 ここが青空の下であることも一瞬忘れていたが、今更何を気にすることがあろうか。誰に何と言われようと、彼の手を絶対に離さない。もとより俺はその覚悟で彼の想いを受け取ったのだ。
「ねえ、最後まで喋らせてよ」
 渾身の告白を遮られたテラが、腕の中で不服そうに呟く。
「悪いな。だが、十分伝わった」
「……ずるいよ、そういうところ」
 その口調こそ嫌味たらしかったが、悪く思っている訳でないことはすぐに分かる。背中に回された腕が、優しくも力強く応えてくれている。
「来年もその先も独り占めしてくれたっていいぞ。大歓迎だ」
 年月が経ち、初めは口にすることが憚られた気持ちを伝える言葉も、ようやく素直に言えるようになってきた。
 何にも代え難い、唯一の人。
 在りし日の母を描いた彼女のような絵は描けない。その代わりに、目に焼き付ける。触れて確かめる。何度でも記述する。俺たちを取り巻く全ては当たり前でないからこそ、記憶に留めて、何度でも思い起こす。
 

 繰り返し巡るこの日を、心から愛せるように。

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