「……何かが横切った」
城下町で所用を済ませ、家に帰ろうとする道中だった。ゼロが唐突にそう呟くのを聞き、ツヴァイクは足を止める。ここは草木に覆われた薄暗い山道で、今このふたり以外に人の往来はない。
「奥の茂みの方から音がした」
「人か、それとも別のものか」
「んー、わかんねえ。見失った」
どちらにせよ面倒だ。ツヴァイクは心の中で舌打ちをし、腰に装着した皮製の鞘に手を掛ける。
“継承戦争”は終結し、新国王によって故郷の村民たちの名誉は回復された。しかし、城下町の人間から心無い言葉や態度を浴びせられることもある。今朝も街の入口付近で複数の人間に絡まれ、不愉快な思いをしたばかりだった。ゼロは「そういうこともあるだろ」と、特に気に留める様子もなく過ごしていた。だが、ゼロと比べて少々神経質なツヴァイクは、そういうわけで日中ずっと虫の居所が悪い。現れたものが人であろうとなかろうと、危害を加えるつもりであれば容赦はしないつもりだった。
鞘に収めている銃身に指を滑らせたその時、ゼロがおもむろに音のした茂みの方へ歩き出す。彼は茂みの手前でしゃがみ込むと、雑草の隙間から茂みの奥を覗き込む。すると、草むらから真っ白な物体が顔を出した。一匹の小さな猫だ。
与太者か危険生物が現れるものだと身構えていたツヴァイクは、思い掛けない遭遇に毒気を抜かれる思いがした。その一方で、ゼロは目を輝かせて猫を見つめている。
「おー、何だ? お前、迷子にでもなったのか?」
ゼロはそう言うと、あえてそれ以上は近付かず、その場に腰を下ろす。猫はしばらく身を固くしていたが、目の前にあるものが何も手出しをしてこないと分かると、恐る恐るゼロの方へと歩みを進めた。ゼロは何やら小声で呼びかけたり、猫の鼻に指先を近付けたりしながら、警戒を解こうと試みていた。
そのうち、ひとりと一匹はすっかり打ち解けてしまっていた。ゼロが顎を優しく撫でてやると、みーと小さく鳴いて手に身を委ねてくる。
「……で、何でお前はそんなに離れたところにいるんだよ」
ゼロは振り返ると、しばし彼らの戯れを遠巻きに見つめていたツヴァイクを不審そうに見つめた。
「邪魔をしては悪いと思ってな」
「お前がいたところで邪魔にはならねえよ。こっち来いよ。こいつ、人懐っこくて可愛いぜ」
「……いや、俺は」
珍しくはっきりしない返事をするツヴァイクに、ゼロは首を傾げた。多少のことでは狼狽えない男が、他人の目にも分かるほど困惑した表情を浮かべている。ツヴァイクが言わんとするところを察したゼロは、「ああ」と声を上げる。
「もしかしてお前、猫が苦手なのか?」
「……まあ、猫に限らず、動物が」
「ヘぇ……ふーん……お前が動物嫌い、意外だなぁ……」
これまた珍しく歯切れの悪い返事をするツヴァイクを面白がって、ゼロはにやにやと笑う。弱点見つけたり、と調子に乗るゼロに(それはもう、とてもしつこく)その理由を尋ねられ、渋い顔をしながらもツヴァイクは口を開く。
理由は至極単純で「好かれないから」だ。幼少期のことだが、村の周りに住み着いていた野良猫に引っ掻かれたこと。ほぼ毎日顔を合わせる近所の村人が飼っていた大型犬に必ず吠えられたこと。その他似たような、動物に嫌われた経歴がいくつか。膝の上に乗せた子猫の頭を撫でながら聞いていたゼロも「一体何をしたらそこまで嫌われるんだ」と呆れるほどだった。
「好かれないって決めつけてるから、好かれないんだろ」
「それは一理あるかもしれないが、苦手なものは苦手だ」
「怖がるようなことをしなけりゃ大丈夫だって。それに、お前はいきなり引っ掻いたりしないもんな?」
子猫はゼロの問いかけに呼応するように一鳴きする。まるで、そうだよ、と言うかのように。
彼が以前、「人と接するのはちょっと疲れる」と話していたことを思い出した。では人間でなければどうなのかと訊くと、「その方が、少しだけ気が楽だ」と答えた。恐らく無意識のうちに言葉の届かない領域で意思の疎通を図っているのだ、と解釈した。共に過ごせば過ごすほど、ゼロという人物の特異性を思い知らされる。彼は決して一族の出来損ないなどではない。そうでなければ、あの魔物と心を通わせるなんて芸当はできなかっただろう――
みぃ、と猫が鳴く声で我に帰った。ゼロと魔物のことを考えれば考えるほど、気が休まらない。
だが、今向き合うべき相手はそいつではないだろう。ツヴァイクは腹を固める。
(……たかが小動物一匹に、俺は何を弱気になっているのか)
ツヴァイクはゼロの背後に座った。猫ももうひとりの人間の姿を認めたものの、やはり警戒しているのか、ゼロの陰に隠れるようにして様子を窺っている。小さな青い瞳に、険しい表情をした男が映っている。
怖がるようなことをしないのは当たり前だ。それに加えて、こちらも心を開くことができれば。
ツヴァイクは意を決して、ゼロがしていたように手のひらを差し出した。そのままじっと待っていると猫はおずおずとツヴァイクの指に顔を近づけ、匂いを嗅ぎ始める。ふたりと一匹の間には異様に張り詰めた空気が流れている。
「そのまま、そーっと顎の下を撫でてみろ」
ゼロの言うとおりに、ツヴァイクはその真っ白な毛にそっと触れた。軽く掻くように撫でてやると、猫は心地よさそうに目を閉じた。猫がこんな仕草をするのを、ツヴァイクは初めて目にした。ふわふわとした感触と体温も案外悪いものではない。
「友達が増えたな」
固唾を呑んで見ていたゼロも、その様子を見て無邪気に笑った。先程までの苛立ちも、彼を取り巻く不安さえも少しずつほどいていくような温もりに、ツヴァイクは口元を緩く綻ばせるのだった。
大昔に書いたツヴァイクとゼロの話を少し書き直しました。
動物とのかかわり方が真逆なふたり組って、かわいい~
